悪しき者達2 (3)![]()
ポタリ、ポタリと遠くで水滴の落ちる音がする。
使われなくなって久しい地下鉄の構内へとやってきた亜門は、待合室らしき小さな地下室の冷たい床の上に朱雀の身体を横たえた。
すっかり意識を失ってしまった朱雀は、そのままぐったりと目を閉じている。
微かに上下する胸がかろうじてまだ生きている事を教えていたが、それがなければ本当に死んでいるのかと思う程、朱雀の状態は酷いものだった。
細い腕。細い足。少女のような顔立ち。
普段さほど感じないのに、目を閉じているだけで、やけに朱雀の顔は少女めいて儚げにさえ見えた。
きっと朱雀を強く見せていたのは、あの印象的な光を放つ瞳の所為なのだろう。
すべてのものを憎みきった朱雀の瞳。
その瞳が閉じられいるだけで、どうしてこんなにまで頼りなげなのだろう。
薄暗い部屋の中は、妙にしんとした冷たさが漂っている。
朱雀の顔色が土気色に見えるのは、部屋の薄暗さの所為だけではない。
亜門はそっと朱雀の顔に張り付いた髪の毛を払いのけた。
長い睫毛に柔らかそうな淡いくせ毛。
血の気を失った唇にまだこびりついたままの血。これは朱雀の血だろうか。それとも相手の男の血なのだろうか。
ぞわりと背筋が寒くなり、亜門は多少乱暴に朱雀の唇の血を拭い去った。
何故か吐き気がこみ上げてきた。
濡れたシャツが肌に張り付いて気持ち悪い。
亜門はボロボロになった朱雀のシャツを脱がし、堅く絞るとそれを床に広げ、その上に朱雀を寝かしつけた。
「こんなもの、何の足しにもならないけどな…」
本当に、気休めにしかならない違いだろうが、せめて床に直接寝るよりはいくらかましだと信じ、亜門は自分もさっと着ていたシャツを脱ぎ捨てた。
毛布なんて贅沢は言わないから、せめて布きれ一枚でもないかと亜門は薄暗い室内を見回したが、目に入ったものは、埃だらけの床に転がっている壊れた木製のベンチのみだった。
「……………」
亜門は膝を抱えてうずくまった。
何もない。
身体を暖める毛布一つ自分達には与えられない。
こんなじめじめした暗い場所で、青白い顔をして苦痛に耐えている。
「朱雀………」
答えなど返ってこないのは解っていたが、亜門は小さく朱雀に向かってささやいた。
空気がどんどん冷えてくるのが解る。
じかに床に座っていると、下から冷たさが身体にしみこんでくるようで、亜門はぶるっと身震いをした。
雨に濡れ続けた所為でかなり体力を消耗しているのが感じられる。
自分でさえこうなのだから、朱雀の体力の衰弱は相当なものだろう。こんな目にあって、それでも朱雀は生きたいと願っているのだろうか。
明日への希望も、夢も未来も何もないこんな状態で。
それでも。
「朱雀……」
あんな所にボロ屑のように転がったまま何時間も、朱雀はじっと何を考えていたのだろう。
あの時。
たたきつけるような雨が降り出す一瞬前。確かに朱雀の声が聞こえた気がした。
言葉にならない悲鳴のようなものが頭の中に響き、すっと消えていったのだ。
ほんの一瞬。
つかもうとすると消えてしまう夢のような感覚。
その中に確かに朱雀の心があった。
そう思ったとたん、亜門は我知らず駆けだしていた。
一直線に朱雀の元へ。
「何でだろうな」
再び亜門がつぶやく。
「何で、オレはこんなにお前のことが気になるんだろう」
そっと手を伸ばし、亜門が朱雀の頬に触れた。
土気色の頬はもう氷のように冷たくなっている。
「朱雀…?」
先程まで微かに聞こえていた呼吸の音がもうほとんど聞こえなくなっている。
「おい…朱雀?」
パンパンと軽く頬を叩いたがいっこうに反応は返ってこなかった
「…おい!朱雀!!朱雀!!」
いくら呼んでも室内には亜門の声が反響するだけで朱雀はもうピクリとも動かなかった。
「………くそったれ」
ぐいっと朱雀の腕を引っ張り、亜門は裸の胸に朱雀の身体を抱え込んだ。
直に触れた朱雀の肌はやはり氷のように冷たくて、亜門は床に脱ぎ捨てたシャツを広げ、その上に朱雀の身体を抱えたままごろりと横になった。
腕の中にすっぽりと収まってしまう細い朱雀の身体をきつく抱きしめ、亜門はゆっくりと朱雀の白い背中をさすりだした。
「こんな所で死ぬなよ、朱雀。こんなふざけた死に方したって惨めなだけだぞ。解ってんのか?」
ピクリとも動かない朱雀に向かって、亜門はずっと小さな声でささやき続けた。
「お前を傷つけた奴ら、全員ぶち殺すまで死ねないんじゃなかったのか?朱雀」
朱雀の柔らかな髪に顔を埋め、亜門は更にきつく朱雀の身体を抱きしめた。
ぴったりと身体を密着させると微かに朱雀の心臓の鼓動が感じられる。
まだ大丈夫。
まだ死んでいない。
「死なせない…」
そっと朱雀の頬に口付けて亜門が低くつぶやいた。
「絶対にお前を死なせたりなんかしない」
ゆらりと亜門の身体から陽炎がたった。
ほんの少し、周りの温度が上がった気がした。
――――――トクン…。
微かな心臓の音が聞こえる。
トクン…トクン…
規則正しいその音が、徐々に力強さを増してくるのを感じ、亜門はようやく抱きしめていた腕をゆっくりと離した。
土気色だった唇にも僅かに赤みがさしている。
そっと唇の前に手をかざすと、微かに手のひらに息がかかった。呼吸をしている証拠だ。
ほうっと安堵の吐息を洩らし、亜門は額にかかった前髪を払うと、静かに朱雀の身体を床に横たえ起きあがった。
身体中がギシギシと痛み、下になっていた腕はもう感覚すらない。
きっともうしばらくすればじんじんと痺れだすだろう。
「朱雀……?」
そっと朱雀の顔を覗き込み、亜門は赤味を増した朱雀の頬を撫でた。
すると、ピクリとほんの僅か朱雀の睫毛が揺れる。
「朱雀」
意識が戻りかけているのかもしれない。
「朱雀…朱雀…!!」
「………………」
「おい!起きろよ!朱雀!!」
一瞬眉を寄せ、ようやく朱雀が目を開けた。
淡いエメラルドグリーンの瞳がぼんやりと亜門を見上げる。
「…………?」
ゆっくりとあたりを見回し、次いではっとしたように朱雀は突然ガバッと飛び起きた。
ぼうっとしていたのはほんの一瞬。
あっという間に覚醒を遂げた朱雀はいつでも攻撃できる態勢で壁際に身を寄せた。
はっとする程きつい光を帯びた大きな瞳。
ああ、この目だ。これが朱雀だ。
じんと痺れた腕をさすりながら亜門が立ち上がった。
「何処だ…?此処は……」
かすれた声で朱雀が訊いた。
「使われなくなった地下鉄の構内だよ。此処は待合室かなんからしい」
「……」
「んな警戒すんなよ。此処にはオレ以外、誰もいねえよ」
にやりと亜門が笑った。
朱雀はまだ警戒心を解けない様子で、じろりと亜門を睨み付けたまま、トンと壁に身体をもたせかけた。
「何で…助けた……?」
ほとんど聞き取れないほど小さな声で朱雀がつぶやく。
亜門はふっと笑いながら、朱雀の顔を覗き込んだ。
「さあてね。何でだろうな。オレにもわからん」
「……変な奴。やっぱ、お前は変な奴だよ」
朱雀が苦笑しながらごろりと床に寝転がった。
しなやかな細い身体で猫のようにうーんとのびをする。
先程まで腕の中にいた朱雀の肌の感触がよみがえり、思わず亜門は朱雀の裸身から目をそらした。
夕べは必死だった為、気にならなかったが、考えてみれば自分は一晩中あの朱雀の細い身体を抱きしめていたのだ。
吸い付くような柔らかな肌。
目眩のするような甘い感覚。
「………どっか行きてえな」
亜門の様子に気づかないまま、ぼんやりと天井を眺め、朱雀が言った。
「どっかって…何処だよ」
なんとか平静を装おいながら亜門が振り返る。
「何処でもいいよ。人間がいない所なら」
「……………」
「まわりに誰もいない、無人島かなんかだと理想的だよな」
「………オレも…か?」
ぽつりと亜門がつぶやいた。
「……えっ?」
「お前の言う、誰も…の中には、オレも入ってるのか?」
おもわず身体を起こして朱雀は亜門を見つめた。
亜門はわざと朱雀から目をそらし、くるりと背中を向ける。
「何でもねえ。忘れてくれ」
ピシャンっと部屋の隅の天井から、漏れた水滴が床の水たまりではねた。
まったく何を言い出すんだ自分は。
亜門はおもわず口をついてでた自分の言葉に苦笑した。
ずっと独りで生きてきて、それを不自然だとか、寂しいだとか思った事などなかったのに。
この頃、変だ。
どうして、こんなに気になるのだろう。
どうして、こんなに放っておけないのだろう。
どうして、こんなに胸が苦しいのだろう。
「………貸しをチャラにしてくれるんなら何処へでも行けよ」
しばらく後、朱雀がぼそっと言った。
「貸し?」
何の事か解らずに亜門がオウム返しに聞き返す。
「前に言ってたろ。見返りもなしに助けてもらえたなんて思うなって」
「…………」
「続きは次までの貸しにしとくって。確か、まだそのまんまだったよな」
「………あ…」“やめた。”
“………?”
“半病人みたいな奴を犯っても面白くねえからな。次までの貸しにしとくよ。”
“………!!”
“続きは怪我が治ってからって言うことで。”
“つ…続きなんかあるか!!バカ野郎!!!”なんだか随分と昔に交わした会話のような、それでいて、つい昨日の出来事のような気がする。
「朱雀…」
ぽつりとつぶやき、ふいに亜門は朱雀の腕をつかみぐいっと引き寄せた。
「………!!」
ほんの一瞬、朱雀が身を固くする。
「な…何だよ…急に」
「なあ、朱雀。貸しって事は、利息もつくよな。もちろん」
「!?」
「利息分、貰うぜ」
「なっ…!!」
言い終わるが早いか、亜門は素早く朱雀の唇を塞いだ。
「……んっ…」
突然の事に朱雀が苦しげな息をもらす。
なんとか亜門の身体を引き剥がそうと伸ばされた手にいっこうに構う様子もなく、亜門は朱雀の首の後ろを抱え込むと更に深く口づけた。
「…んっ…やめ…」
朱雀の抵抗などお構いなしに亜門の舌が朱雀の口腔へ進入してくる。
「…ちょ……や…やめ…」
「…………」
「……や…め…」
「…………」
「な…何考えてんだ!てめえは!!!」
ようやく亜門の腕をふりほどき、壁へ突き飛ばすと、朱雀は真っ赤な顔をして後ろへ退いた。
「ったく。脳味噌腐ってんのか?このゲス野郎」
荒い息を吐きながら、朱雀が乱暴に自分の唇を拭った。
「いくら飢えてるからって人を女の代用品にするなよ」
「よく言うぜ。自分で誘ったくせに」
「なにい!!」
おもわず振り上げた拳をさっと掴み上げ、亜門が真剣な顔で朱雀を覗き込んだ。
「………!!」
真正面から視線がぶつかり合い、無意識に朱雀の喉がゴクリと鳴った。
「な…なんだよ…」
薄暗い部屋の中、ほんの一瞬まぶしそうに目を細めて朱雀を見つめた亜門は、すっと掴んでいた腕を離し、そのまま朱雀の頬を包み込んだ。
「…………?」
触れるか触れないかくらいの微妙な位置で亜門の両手が止まる。
「……………」
「……亜門……?」
「……安心した」
「…………?」
「……もう、二度とお前の目が見られなくなるのかと思ったから」
「……………」
「良かった……」
じっと亜門を見つめながら、朱雀が静かに自分の頬にのびた亜門の手を取った。
ピクリと亜門が反応する。
朱雀は無言のまま、すっと亜門に近づき唇を寄せた。
「…利息分だけ…な」
そう言って、朱雀はゆっくり唇を重ねた。
ついばむようなキスの後、ほんの少し唇を離して、朱雀がくすりと笑う。
「…目くらい閉じろよ。色気ねえなあ」
「……………」
亜門は、そっとそっと腕をのばし朱雀の身体を抱きしめると、今度は自分から朱雀に口づけた。
ふわりと朱雀も亜門を抱きしめ返す。
触れ合った肌が心地よく、亜門は朱雀の柔らかな髪に顔を埋め、静かに目を閉じた。FIN.
2001.9 脱稿 … 2001.12.1 改訂