悪しき者達2 (2)![]()
嫌な予感っていうのは必ず当たるんだ。
朱雀は心底嫌そうな顔をして目の前の男を見上げた。
こんな場所には不似合いな上等のスーツに身を包み、ボディーガードらしき男を従えて歩いていたこの男を最初に見た時は、ただのカモだと思っていた。
いつもの客と同じ。
だから、その男が朱雀を見付け、近寄って来た時も、多少嫌な予感がしたものの、またいつもと同じだと思って、何の抵抗もなく付いて来たのだった。
怪しいと思いだしたのは、だんだんと男の歩調が早くなり、朱雀の腕を掴む手に力がこもりだしてから。
車で30分程かかったろうか、見慣れない路地裏にひっそりと建つ古ぼけた安ホテルらしき建物にたどり着き、男は中へ入るよう朱雀をうながした。
自分のテリトリーから離れてしまった事に多少の不安を覚えながら、それでも何かあった時はすぐ逃げられるようにと逃走経路を探りながら、朱雀は部屋の中へと足を踏み入れた。
そして、その部屋を見たとたん、朱雀は酷く後悔をしたのだ。男は、ボディーガードを廊下に待たせておいて、部屋に入ったとたん後ろ手に鍵をかけた。
「……!?」
ガチャリとやけに重たい鍵の音にギクリとして振り向き、朱雀はそのまま部屋を見回し絶句した。
「な……なんだ…此処は…」
外側から見ればただの薄汚いホテルにしか見えなかったのに、この部屋は何処かが異常だった。
「………?」
まず、窓が何処にもみえない。
四方を分厚い壁に囲まれ、これで鉄格子でもはめてあれば、どこかの鑑別所とかわらなく見える。
冷たいコンクリートの壁、光の射さない薄暗い室内。
部屋の中央にあるやけに大きなベッドだけが、この部屋がやはりそういう目的のために作られたものだと伺わせる。
壁にかかっている鞭。ゆらりと揺れるろうそくの炎。
「てめえ、サディストかよ。趣味悪いねえ」
吐き捨てるように朱雀がつぶやくと、男はひどく残忍な笑顔で、唇の端をつりあげた。
「いや、最近、金だけ取って逃げ出す不届きな者がいるって噂を聞いてね。まさか君がそうだとは思わないが、念には念をいれさせてもらった」
「…………」
「私は子供にバカにされるのは嫌いでね。まして、君たちのような人間以下の者に」
「………!!」
男の身体からは残酷な匂いがする。
朱雀は顔をしかめてじろりと男の蛇のような目を睨み付けた。
「別に殺しはしないよ。君がおとなしく私を満足させてくれればね」
「…………」
「そうそう、少しでも逃げる素振りをすれば君を殺すよう表の男達に命令してあるんで、妙な気は起こさぬ事だ」
「…………!!」
壁ぎわに追いつめられ、朱雀はギリッと唇を噛んで男を見上げた。
ネクタイを緩める男の手が朱雀の瞳を見て、ピタッと止まる。
「何だ、その目は」
ピクリと男の眉がつり上がり、次の瞬間、砕けるかと思う程の強い力で男が朱雀の顎を掴みあげた。
「……くっ……!」
「気に入らんな。その目」
そのまますっと男の顔が近づいてくる。
朱雀は必死で男の手を振り払おうともがいた。
「……嫌……だ……」
言いながら何が嫌なのだろうと朱雀は思った。
この間から変だ。
ちょっと我慢すればすむ事だと思っていたのに、何がこんなに嫌なのだろう。
男の唇が朱雀に触れるほど近くに寄ってくる。
とっさに顔をそむけ、朱雀は両腕で顔を覆った。
男は少しも構わない様子で、乱暴に朱雀の手を無理矢理押し広げる。
「離せ…この……」
必死で男の腕を振りほどき、這うようにして部屋の隅に逃げ込んだ朱雀は、まるで汚いものを見るかのような目で男を振り返った。
「嫌だ……誰が…お前なんかに……」
「此処まで来て今更何が嫌なんだ?」
「…………」
男が喉の奥でクックッと笑いながらゆっくりと朱雀に近づいてきた。
「そういう事をして金をもらっている屑のくせに、客に求められれば、いくらでもどんな事でもするんだろう…?」
「……………」
「違うというのか?」
「……………」
「それとも、金のために足は開いても、唇は奪って欲しくない…?」
男はこみ上げてくる笑いを抑えきれないような表情で、肩をふるわせながら、朱雀を見下ろした。
「そういえば、昔、好きな男に操をたてる為だとか言って、客と接吻するのを嫌がった馬鹿な女がいたが、お前もそのくちか?」
「そ……そんなんじゃ……」
ない。
そう言いかけて朱雀は口をつぐんだ。
朱雀の頭の中に、ふいに先日の亜門の声が聞こえてきたからだ。
“公衆便所”
まるで映画のフラッシュバックのように鮮明に蘇る亜門の顔。
蔑むようなその瞳。
「違う…オレは……オレは別に……あんな奴……」
「フッ」
呆れたように男が肩をすくめた。
「これはこれは。まさか図星だとはな。本当に気に入らん餓鬼だ。貴様のような屑がいっぱしに誰かの事を想うなどと片腹痛いわ」
「………!!」
「お前らのような人間の屑はおとなしく私たちに従っていればいいんだ。自分の意志など持てると思うのが間違っているんだ」
「……な…んだと……!」
ぬっと男の手が朱雀の顎を捉えた。
「違うとでも言うのか?ええ?だったら抵抗してみろ。出来ないだろう。
「…………」
「力のない者は力のある者の前に屈服するように出来ているんだよ」
「…………!!!」
「この屑が……!」
「………!!!!」
声にならない叫びがむなしくあたりに響きわたった。
と、同時に突然たたきつけるような雨が降りだした。
――――――ザー………ザー………
耳障りな雨の音を聞きながら、朱雀はぼんやりと雲を見上げた。
今度こそ死ぬかもしれない。
そんな考えが、ふと頭をよぎる。
ひとけのない狭い路地裏にボロ雑巾のように横たわる朱雀の全身に冷たい雨が容赦なく降り注いでいた。
遠くかすかに雷鳴の音も聞こえる。
目を開けることも億劫になって、朱雀は濡れるに任せたまま、じっとその場から動こうとしなかった。
冷たい雨がどんどん体温を奪っていくのが解る。
先ほどまであった痛みの感覚すら、すでに何処かへ遠のいているようだ。
「マジでやばいぞ……」
ほんの少しだけ身体をずらそうと手に力を入れたとたん忘れていた痛みがズキンと全身を駆けめぐった。
身体の中心部が引き裂かれたような痛みを訴える。
「………………」
再び力無く石畳の上に倒れ込み、朱雀はゆっくりと息を吐いた。
動くこともできない。
目を開けることも、手を伸ばすことも、たたきつけるような雨から身を隠すことすらできない。
「こんな場所がオレの墓場になるのかな?」
自分の言った言葉に、朱雀はくすりと笑った。
馬鹿馬鹿しい。
いつだって、これ以上ないくらいの地獄の中を歩いてきたくせに、何を望んでいるんだ。
手を伸ばしたって誰も支えてくれない。
助けを呼んだって誰も聞いてくれない。
何かを願ったって叶えられることなんかなかったのに。
ぼんやりと朱雀は目を開けた。
路地の向こうは雨で煙って何も見えない。
「…………?」
ふと、目の端に倒れたゴミ箱の中から覗いている、食べ残しのリンゴの赤い皮が見えた。
「……リンゴ……?」
朱雀の頭の中に懐かしい思い出がよみがえる。
初めて亜門に逢った海辺の街。
ふてくされた顔をして、赤いリンゴを差し出した亜門の顔。
なんで、あんな奴の事を思い出しているんだろう。
亜門の姿を頭の中から追い出そうと、朱雀が乱暴に首を振ろうとした時、突然頭上から聞き慣れた声が降ってきた。
「おい!」
次いで、軽く腹を蹴り上げられる。
「こんな所に転がって。死んでんのかと思ったぞ」
「……あ………亜門……?」
見上げると、不機嫌そうな顔の亜門がじろりと朱雀を見下ろしていた。
身体を起こそうとすると、再び全身を激痛が駆けめぐる。
朱雀は諦めたようにごろりと仰向けに寝転がり、亜門の深い濃緑色の瞳を見上げた。
「…何だ?起きあがれないのか?お前」
言いながらしゃがみ込んで朱雀の顔を覗き込んだ亜門の表情がはっと引き締まった。
ビリビリに引き裂かれたシャツからのぞく肢体は、これでもかという程、痛めつけられている。
顔は腫れ上がり、細い腕には縦横無尽に鞭の跡が走っている。
至る所に見える青あざの様子から、骨の1本や2本は折れているのかもしれない。
唇に滲む赤い血の跡がやけに生々しく亜門の目に映った。
「これは……酷いな。何しでかしたんだ?お前」
思わず伸ばされた亜門の手を力無く振り払い、朱雀はキッと亜門を睨み付けた。
「……てめえには…関係…ない…」
のどの奥がヒリヒリと痛み、声すらかすれてまともに出てこない。
自分の状態の悪さが自分で許せなくて、朱雀はすっと亜門から視線をそらせた。
「何強がってんだよ。馬鹿か?お前は」
亜門が呆れた声をあげる。
「自分で呼びつけたくせに、今更そういう態度とるなよ」
「…………?」
朱雀が驚いて、亜門を見上げた。
「呼んだ…?オレが…?」
「ああ」
「嘘だ」
「嘘じゃねえよ。呼んだろ。オレの事。心の中で」
「……………!!!」
「聞こえたんだ。お前の声が。この雨が降りだした直前」
雨に濡れ、頬に張り付いた髪を払いのけながら、亜門が言った。無意識に。
あの男の手が伸びてきた瞬間。
自分は無意識に亜門の名を呼んでいたのだろうか。「………オレは……」
「……………」
「オレは……お前なんか…呼んでない……」
「……………」
再び伸ばされていた亜門の手の動きが止まった。
「オレは、誰の助けもいらない。どんな目に遭わされたって、オレが助けを求める奴なんていない」
「……………」
すくっと亜門が立ち上がった。
また、一段と雨が強くなる。
「じゃあ、あれはオレの空耳だったわけだ」
吐き捨てるように亜門が言った。
「つまり、オレはお前がこのまま此処でくたばっても、知らんふりをすればいいわけだな」
「………ああ…そうだよ……」
亜門は腕を組み、後ろの壁に身をもたせかけた。
「じゃ、黙って見ててやるよ。お前が死ぬのを」
酷く冷たい目で亜門は朱雀を見下ろした。
すっかり全身ずぶぬれになった亜門の髪から、雨の滴がポタポタと流れ落ちていく。
亜門はたたきつける雨を避けることもせず、濡れた顔を拭う事もせず、じっとその場を動こうとしなかった。
――――――「………おい」
「……………」
「おい、朱雀」
ついに亜門が口を開いた。
「いい加減にしろよ。意地張るのは」
「……………」
「動けねえんだろ。一言いえばせめて屋根の下へ連れてってやろうってのに」
「……………」
「朱雀」
「オレに触れるな」
再びしゃがみ込んだ亜門に向かって、朱雀が鋭い声をあげた。
「オレの身体に触れるな。虫唾が走る」
「……………」
「男なんてみんな、最低のブタ野郎だ」
亜門は黙って朱雀のそばに座り込んだ。
「ちょっとオレより体格がいいからって、力があるからって、そんなものを見せつけて人を言いなりにしようとする」
「朱雀…?」
「金を持ってることがそんなに偉いのか?両親そろってなきゃ生きてちゃいけないのか?帰る家のない奴は人間じゃないとでもいうのか?ふざけんじゃねえよ……!!」
「…何があったんだよ。いったい」
「……………」
「朱雀?」
「気にいらねえんだよ。何もかも。自分じゃ何も出来ないで、ボディーガードに守ってもらってる弱者のくせに。人を小馬鹿にした目をしやがる。それでいて気にさわる事ばかりぬかしやがって」
「……………」
「本気で嫌だと思ったんだ。だから……」
「………だから………?」
ふっと朱雀が笑った。
「ちょっと本気で抵抗してやったら、逆上しやがってよ」
「抵抗って……」
「別にたいした事じゃない。噛みちぎってやっただけだよ」
「…噛み…?」
にやりと朱雀が笑った。
「何を……噛み……」
「そう。ナニを…な」
そう言って朱雀は亜門の股間を指さした。
「なっ…!?」
あまりの事に亜門が絶句する。
「たいしてでかくもないブツだったけど。無理矢理口に突っ込んできたんで、ちょうどいいやって思ってさ」
僅かに朱雀の目の中に狂気の光が宿る。
「め…滅茶苦茶だな、お前って奴は」
亜門がなんといってよいか解らないという表情をすると、朱雀はおかしそうに含み笑いをもらした。
本当に、信じられないことをする小悪魔なのだ。この少年は。
まるで孤独な狼か何かのように、誰のことも信用しないで、独りで生きて。
自分も傷つくことを覚悟せずにはそばへも寄れない。
「…………!!」
急にしゃべりすぎたのか、朱雀の眉が苦しげに寄せられた。
「…朱雀…?」
心なしか吐く息も荒い。
「おい!朱雀!!」
つかんだ朱雀の腕はぞくりとするほど冷たかった。
「朱雀!!」
がばっと朱雀の身体を抱え上げ、亜門は走り出した。
朱雀はもうほとんど意識のない状態で、抵抗もせず、ぐったりと亜門の腕に体重をもたせかけている。
「……この…馬鹿野郎…」
抱え上げてみて改めて気付く。朱雀の体重が異常に軽いという事に。
亜門はギリっと唇を噛んでそばの地下道への階段を降りていった。