悪しき者達2 (1)

パリンッ…と亜門の頭上で硝子の割れる音がした。
はっとして歩みを止め、亜門は辺りをぐるっと見回す。
「………?」
諍い事や何かで割れたような大きな音ではなかった。どちらかというと合図か何かのような。
聞き逃せばそれまでのような、微かな音。
「何だ……?」
手をかざし、亜門は目の前の古びた建物を見上げた。
安っぽいホテルか何かなのか、寂れた看板が表のドアの所にかかっている。
すうっとそのまま視線をずらし、建物の二階の窓を見あげると、かなり痛んだ窓枠にはめ込まれているくもり硝子の下半分が割れており、そこから白い肌の少年が顔を覗かせていた。
「…朱雀……?」
青白いともいえる白い肌に淡い癖のある髪。大きなきつい瞳をして、朱雀はじっと下にいる亜門を見下ろしていた。
やがて、亜門が顔をあげ、こちらに気付いたのを見て取ると、朱雀はおもむろに割れた窓から身を乗り出した。
「亜門……!」
素っ裸に黒いシャツを一枚羽織っただけの格好をした朱雀の首元に、ちらりと赤い小さな痣のようなものが見え、とたんにビクリと亜門の表情が強ばった。
「お仕事中かよ……」
すっと、亜門が朱雀から視線をそらせた。

何年か暮らした海辺の街を、成り行き上とはいえ、朱雀と2人で逃げ出して、亜門はこの新しい街にやってきた。
夜中、貨物列車に乗り込み、二晩かけて見知らぬ街に降り立った2人は、そのまま別れの言葉もなしに別々の場所へと去っていった。
別に、これから一緒に暮らそう等と約束したわけではないのだから当たり前の事なのだが、去っていく朱雀の背中を見送る亜門の胸は、少しだけ痛んでいた。
だからといって、亜門も朱雀の後を追おうとはせず、そのまま新しい街でも相変わらず独りでの時間を過ごしていた。
これまでもずっと、色々な街を転々とし、ひっそりと身を隠すように生活していた亜門だったが、何故かこの街についてから、何かが足りないような気がずっとしていた。
足りない何か。
それが何かという事は、亜門はあえて考えないようにしていた。
きっと解ってしまったら、取り返しのつかない事になる。
自分自身が弱くなってしまうような気がして、亜門はわざとその気持ちから目をそむけていた。

今日、久しぶりに見た朱雀はドキリとするほど綺麗に見えた。
相変わらずの細い身体も、印象的な大きな瞳も変わらないのに、前をはだけたシャツの隙間から覗く、細身なくせに綺麗に肉のついたなめらかな白い肌を、何故か亜門は正視できなかった。
「亜門!」
2階の窓からもう一度朱雀が亜門を呼んだ。
亜門は渋々視線をあげ、朱雀を見上げる。
「ちょっと待ってろ」
小さな声でそう言い、一旦部屋の奥へ姿を消した朱雀はすぐに戻ってくると、音をたてないように窓を全開に開け、窓枠に足をかけた。
「おい……!!」
そのままひらりと窓枠を乗り越え、朱雀が亜門の腕の中めがけて飛び降りた。
「……!?」
とっさに腕を伸ばし、亜門は飛び降りてきた朱雀の身体を受け止める。
まるで羽根でも生えているのではないかと思う程、重さを微塵も感じさせないで、朱雀はふわりと亜門の腕の中に飛び込んだ。
懐かしい朱雀の香りがした。
「な……何やってんだ!?危ないだろうが。怪我でもしたら」
「けっ、オレがそんなドジ踏むかよ。バーカ」
言うが早いか、朱雀は亜門の手を取り、立ち上がった。
「行くぞ」
「行くって…」
「決まってる。逃げるんだよ」
「!?」
有無を言わさず走りだした朱雀に引っ張られ、亜門は渋々駆けだした。
朱雀に握られた腕が何故か熱くて仕方なかった。

 

――――――「どういうつもりだよ。いったい」
地下道へ続くトンネルの中で、亜門はとうとう朱雀の手を引き剥がし、立ち止まった。
「どういう事って、なんだよ」
「何って…お仕事中だったんだろ、お前」
多少むっとした口調で言いながら、亜門は朱雀のはだけられた胸を指し示した。
一つもボタンを止めていないので、滑らかな胸が露わになっている。
少し汗ばんだその白い肌に、微かな赤い斑点が見える。たった今つけられたばかりのキスマークだろうか。
じろりと睨み返す朱雀の視線を避け、亜門は後ろの壁にトンっと背をもたせかけた。
何故だろう。胸がむかむかする。
「客放って置いて逃げてきて大丈夫なのかよ。追いかけてくるんじゃねえのか」
「来ねえよ。んなもん。あいつ、結構良い会社の重役だって言ってたから、こんな所で男買ったなんて知られたら一大スキャンダルだ。騒ぎなんかおこすかよ」
「……重役ね。じゃあ、かなり上玉の客だったんじゃねえか………」
「上玉ね……まあ、良い客だよ。犬みたいな奴だけど」
「……?」
「舐めるのがお好きらしい」
「……!!」
かあっと亜門の頬が熱くなった。
「あんまりしつこいんで、適当にシャワー室に追いやって、その隙にバックレようと思ってたんだけどさ。お前、良い所に現れたな」
ズボンのポケットからくしゃくしゃになった札束を取り出し、朱雀がにっと笑った。
「ほら、奴の財布の中からくすねてきたから、ちょっとはいいもんが食えるぜ」
「…………」
あの一瞬で財布から金を抜き取り、そのままポケットに突っ込んで、窓から飛び降りて来たのだ。この小悪魔は。
ぴったりと足に張り付いた細めの濃いジーンズに黒いシャツ。
札束を数える器用そうな細い指。特に手入れなどしていないのだろうに、淡いピンクの爪は、やけに艶光りした見事な光沢を放っている。
初めて逢った頃より、ほんの少し背が伸びて、ほんの少し髪も伸びて。
少女かと見紛う程の、滑らかそうな白い肌。引き締まった腰。
見るものを捉えて離さない、印象的なきつい瞳。
そして、身体中から匂い立ってくるような妖艶さ。
ゴクリと亜門が喉を鳴らした。
「やったのか?そいつと」
「………えっ?」
ふと、数える手を止めて、朱雀が亜門を見上げた。
「ホント、良い商売だよな。足開いてりゃ金が転がり込んでくるんだから」
「………!!」
「んな汚ねえ金、恵んでもらう気はねえよ」
「……なんだと……」
「公衆便所野郎」
「……!!!!」
バシッと朱雀が亜門の頬を張り飛ばした。
手に持っていた札束がパッと宙を舞う。
はらりと地面に落ちた札を踏みつけながら亜門は朱雀に背を向け歩き出した。
「やったがどうした」
亜門の背中に向かって朱雀が鋭い声をあげる。
「オレが何やって生きようがてめえには関係ないだろ。指図なんかされる覚えはない!」
「…………」
「どうせてめえだって、一皮剥けばあのブタどもと考えてることは同じなんだろ」
「……!!」
ビクリと亜門の背中が硬直した。
「それとも何か?自分だけは清廉潔白だとでも言いたいのか?笑わせんじゃねえよ。このドブネズミ野郎」
「……何だと!!」
思わず振り返った亜門は朱雀の表情を見て、凍りついたように足を止めた。
「……失せろよ。てめえの顔なんか二度と見たくない」
つぶやくようにそう言った朱雀は、ボロボロに傷ついたような目をしていた。
「…………」
ギリっと唇を噛みしめ、朱雀はパッと身を翻して駆けだした。
あっという間に小さくなる朱雀の後ろ姿を見送り、亜門は力任せに壁を殴りつけた。

平気なわけない。
以前居た海辺の街で聞いた朱雀の言葉を思い出す。
力もなく、金もなく、そうすることでしか生きられなかった朱雀。
自分だって一歩間違えば朱雀と同じ事をしかたもしれない。
そうせずにいられたのは、この忌まわしい力の所為。
わかっている。わかっているのに。
我慢できなかった。
無性に腹が立って仕方なかった。

朱雀。
亜門の脳裏に見知らぬ男の腕の中にいる朱雀の姿がよぎった。
朱雀の身体の上を徘徊するごつごつした男の手に、ピクリと朱雀が反応する。
淡い絹糸のような髪が揺れ、朱雀の細いうなじが見え隠れしている。
白い指がギュッとシーツの裾を握りしめ、痛みに耐えるように長い睫毛が伏せられる。
薄暗い部屋の中にもれる、微かな呻き。
男の上にまたがった朱雀の背中が、反り返り、そして。
「……!!!」
ダンッと再び亜門は壁を力任せに殴りつけた。
「何だってんだよ。一体」
亜門はブンブンと頭を振り、自分の中に沸き上がってくる何かを振り払おうとした。
目を閉じると、先程の朱雀の顔が見える。
「くそっ…!!」
苛ついた目をして駆けだした亜門は、かどを曲がろうとした時、ちょうど向こうからやって来たちんぴら風の集団の一人にぶつかった。
「……!」
「おっと」
そのまま無視して走りだそうとした亜門の腕を一人の男がガシっと掴む。
「おい、小僧。人にぶつかっておいて挨拶もなしか?」
「………」
ちらりと亜門はその男を見上げた。
それなりに鍛えていそうな頑丈そうな身体。
腕に何かの入れ墨をしているのが見える。
「失せろ」
男の腕を振り払い、亜門が言った。
「……何ぃ?」
まわりの男達が亜門の態度に色めき立つ。
「オレは今、すこぶる機嫌が悪い。怪我をしたくなかったら失せろ」
「………なっ!?」
亜門の大胆不敵な言葉に、男の顔色がどす黒く変わった。
「てめえ。見ない顔だな。新入りか?オレ達が誰だか知っててそんな口きいてるのか?」
「お前らが誰かなどオレは知らん。とにかくオレは今、誰とも関わりたくない。失せろ」
「……貴様…!!」
いきなり男の一人が亜門に殴りかかろうと突進してきた」
「………!?」
と、次の瞬間、その男の身体が電撃を食らったようにビリビリと震え、そのまま後ろの壁に吹っ飛んだ。
「な……何だ!?」
ざわめきが起こる。
じろりと亜門が男達を睨み付けた。
「…………」
亜門の目がすっと細められ、身体から陽炎のような気流が立ち昇る。
「こ……この野郎……!!」
襲いかかってきた奴らは、亜門の身体に触れることすら出来ないまま、次々とはじき飛ばされ、折り重なるように地面へ叩き落とされた。
「こ…こいつ……」
ガクガクと震えながら、男達があたふたと逃げ出した。
「こ…この、化け物め!!」
最後の捨て台詞に、亜門がようやくはっと我に返った。
「………あ……」
くしゃりと前髪を掻き上げ、亜門はそのまま地面に座り込む。
「何やってんだ。オレ。また追われるように逃げ出したいのか?この街を」
考えなしに力を使ったが最後、たちまち噂が広がる。
今まで、何度となくそうやって街を追い出されてきたのに、自分は何をやっているのだろう。
ふーっとため息をつき、亜門は空を見上げた。
「……朱雀……」
もう一度、亜門は深く深くため息をついた。

 

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