天晴れ (3)
「へえ、そんな可愛かったんだ。来生君」
翼が隣で腹を抱えて笑い転げた。
「にしても、その頃から大胆だったんだなあ。井沢君が慌てる姿が手に取るようにわかるよ」
「悪かったな」
ズボンのチャックに手をかけた来生を慌てて押さえ込み、井沢は何度も謝りながら信じると言った。
そして、その次の日、偶然にも同じ幼稚園の同じ組で顔を合わせた2人は、その場で意気投合し、家が近かったこともあって、一緒に幼稚園へ通うことになったのだ。
また、偶然というのは重なるもので、小学校に上がってからも、何故か2人はずっと同じクラスであり続け、その時知り合った滝を含め「修哲の三羽烏」と呼ばれるほどの間柄になった。
同じ学校。同じクラス。同じサッカー部。離れている時間はあるのだろうかと言うほど井沢と来生はいつも一緒に行動していた。
家族ぐるみのつきあいとなっていたので、お互いの家へ夕食を食べにいくことも多々あったし、そのまま相手の家で寝ることもあった。まるで兄弟みたいだと2人の親達は言っていたし、2人とも男兄弟がいなかったこともあってか、そういった相手を欲しがっていたことも事実だったのだろう。
「でもな、翼。奴が可愛いのは黙って立ってる時だけだよ。いったんしゃべりだしたら誰もあいつのこと女の子だなんて思わない。あいつは周りにいる誰よりも腕白だったんだから」
「ふーん」
「あれから何となくずっと腐れ縁が続いてるけど、奴を可愛いって思ったの、後にも先にも、あん時だけだなぁ」
「じゃあ、今回で二回目なんだ。来生君を可愛いって意識したのって」
「…………はぁ?」
バッと翼の方を振り返って井沢は素っ頓狂な声をあげた。
「な・・・何言ってんだよ、翼」
「あれ? 違うの? オレ、てっきりそうなんだと……」
「てっきりって……んな満面の笑顔で何気色悪いこと言ってんだ」
「気色悪いかなあ? 別にそうは思わないけど」
のーてんきな顔をして、何を言い出すのだ、こいつは。
わかって言ってるのか、そうじゃないのか、翼を怖いと感じるのはいつもこういう時だ。
「だってさ、初めて逢ったとき可愛いって思って、しかも守ってあげたいなんて考えたんでしょ。それって立派な初恋じゃない」
「おい」
井沢は精一杯凄味を込めてじろりと翼を睨みつけた。
「オレはね。おしとやかな女の子が好みなの」
「………………」
「ずっと、ずっとオレが守ってあげられるような、そんな感じの子」
「ふーん」
やはり面白そうに目をくりっとさせる翼に、大きくため息をついて井沢は立ち上がった。
このまま此処にいると、さらに気が滅入りそうだ。
「あ、やっと行く気になったんだ。いってらっしゃい」
にっこり笑って翼が手を振った。
「いってらっしゃいって……お前、オレが何処へ行くかわかってんのか?」
苦虫を噛み潰したような顔で井沢が振り返ると、翼は無敵の笑顔でそれを受け止めた。
「もちろん。来生君の所でしょ」
「………………」
「今のなあなあ状態での仲直りでもいいけど、やっぱりこういうことはちゃんと修復しておかないと。文化祭の成功もかかってることだし」
「…………」
「ちゃんと仲直りしてきてね」
もう、否定する気力もなく、井沢はがっくりと肩を落として来生がいるであろう屋上へと上っていった。
――――――「よう」
「…………?」
振り向いた来生の頬に冷たいコーラの缶が当てられた。
「いくら滝がいないからっていつまでもサボってんなよ、このサボり魔」
「井沢?」
来生にはコーラの缶を手渡し、自分はアクエリアスの缶を持って井沢はストンと来生の隣に腰を降ろした。
秋の気持ち良い風が吹き抜ける校舎の屋上。
こうやって並んで空を見あげたのは何週間ぶりだろう。
「どうしたんだ? わざわざこんな所まで。和平条約結ぼうってのか?」
「ま、そんなところ」
にやりと笑って井沢は来生を見た。
「珍しく先に折れてやってるんだから、いいだろ。和平交渉の貢ぎ物も持ってきてやったんだ。感謝して欲しいね」
「何が貢ぎ物だよ。コーラ程度で……あっ!」
コーラの缶のプルトップに手をかけたまま来生の動きが止まった。
「もしかして、これ開けると中味が飛び出してきたりすんのか?」
言いながら来生がじろりと井沢を睨む。
「お前のことだ。それくらい思いつくよな。前科あるし」
「おまっ、しつこいぞ。あれは不可抗力だって言ったじゃないか。塀を乗り越えるとき落としちまったからだって」
「自分の分は無事で、オレのだけ泡だらけっていうのの何処が不可抗力なんだよ。おかげでオレはコーラ漬けになったんだぞ」
「何言ってんだ。オレは炭酸もの苦手だから飲まないんだよ。あん時はお前がコーラが欲しいって我が儘言ったんじゃねえか。オレはわざわざ外までパシリしてやったんだぞ。人の親切、仇で返しやがって」
「仇ってなんだよ。オレ、なんにもしてねえぞ」
「忘れたとは言わせねえ。その後だろ、わざと練習後、オレに水ぶっかけたの」
「あれはスプリンクラーが壊れてたせいだって言っただろうが!」
「信じられるか、そんなこと」
「なんだとー!!」
額がくっつく程の至近距離でしばらくの間怒鳴りあっていた2人は、ふいにどちらともなく笑いだした。
「なんかバッカみてえ。何やってんだオレ達」
「ホント、ホント」
ケラケラと笑う来生は、やはりひまわりが咲いたような笑顔である。
なんだかとても懐かしくなって井沢は肩をすくめてふふっと笑みを洩らした。
「なーに含み笑いしてんだよ。いやらしい」
「うるさい。ちょっと思い出しただけだよ」
「何を?」
「………………」
覗き込んでくる来生は相変わらず大きな硝子玉のような目をしている。
女の子のような長い睫毛。ふわりとウェーブがかかっている髪は、去年、風紀検査でパーマと間違われ、あやうく先生方と大乱闘騒ぎとなったものだ。
あの時は、井沢と滝も加勢をしたため、あとでこっぴどく担任に叱られたのを覚えている。
『じゃあ、今回で二回目なんだ。来生君を可愛いって意識したのって』
さっき翼に言われた一言が頭の中に蘇ってきて、井沢の頬がポッと赤くなった。
「…………?」
慌ててばれないように顔をそむけ、井沢はゴクゴクとアクエリアスを喉に流し込む。
来生も不思議そうに首をかしげたまま、コーラの缶を開けた。もちろん中味は飛び出してこなかった。
「ん、美味い」
「だろ」
冷えたコーラはとても美味しかった。
初めて逢ってから約10年。まさかこんなに長い付き合いになるなどと思ってもみなかったというのに。あの頃は。
今は、隣にいるのがとても自然で。離れる事なんて想像もつかない。
翼が言ったように初恋だったとは思わないが、あれが運命の出逢いだったとは思っている。
「やっぱ、なるべくして成ったってことなのかなあ。今回のジュリエット」
「……は?」
何のことかと来生が井沢を見た。
「初めて逢った時は、マジ可愛い女の子だと思ってたもんなぁ……」
「もっかい殴られたいのか? お前」
はーっと拳に息を吹きかけ来生がじろりと井沢を睨む。
「今回の件は、自分達がやりたくないからって人に押しつけただけの女役じゃねえか」
「オレは押しつけてないぞ。決めたのは滝と翼」
「同じ事だよ。だいたい人の顔や身長のことでゴチャゴチャうるさいんだよ。てめえらは。」
「だったら文句言う前にその甲高いボーイソプラノなんとかしねえとなあ」
「なっっ……!?」
真っ赤になって来生が絶句した。
「やっぱり男は低い声が格好良いと思うよなあ。そうだろ」
「井沢なあ。お前、人より早く声変わりがきたからって、その言いぐさはなんだ!」
「へっ、悔しかったら今度の音楽の授業でテナーのパート歌ってみろよ。メゾソプラノの来生君♪」
「井沢、貴様ー!!」
視聴覚室まで聞こえてくる怒鳴り声と笑い声を、窓から身を乗り出すようにして聞いていた森崎と石崎がお互い顔を見合わせてニッと笑った。
気持ちの良い秋晴れの空の元。文化祭は、あと2週間後に迫ってきていた。