天の河越えて(9)

「あ……おかえりなさい、正人」
遼の後ろから照れくさそうな顔で現れた正人に向かって、伸は無意識のうちにそうつぶやいていた。
「え……?」
一瞬正人がきょとんとする。その表情を見て、伸はもう一度、今度ははっきりと同じ言葉を綴った。
「おかえりなさい。正人」
ふわりとした柔らかな微笑みが伸の顔に広がる。すると、ようやく安心したように正人も伸に向かって笑顔を向けた。
「ただいま、伸」
「うん。おかえり正人」
「元気だったか?」
「そっちは?」
言葉を交わすごとに、今までの不安が嘘のように消えていく。
表情も、声も、仕草も、伝わってくる想いも、何もかもが昔と同じ。
変わっていない。そのことが、こんなにも嬉しい。
大丈夫。大丈夫。
正人と伸はお互いの表情を確かめるように視線を合わせて、再びにこりと微笑みあった。正人の隣で、遼も嬉しそうに笑みをこぼす。
「あ、そうだ、遼、お醤油ありがとね」
遼が大事そうに抱えていた醤油に気付き、ようやく伸は、そう言って遼から醤油を受け取った。
「何処で買った? 安売りの奴、残ってた?」
「あ、ああ。何とかあと数本残ってたんだ。ちょうど良かった」
「そっか。ありがとね、遼」
もう一度お礼を言って、伸がにこりと笑う。
「それにしてもびっくりしたよ。正人と遼が一緒に帰ってくるとは思わなかったから」
「ああ、実はさ、ちょうど商店街の所で会ったんだ。こんなことなら伸が醤油買いに行ったほうが良かったかなって思っちまった。オレが先に会っちゃってごめんな」
妙なところで律儀に謝ってくる遼に、伸は可笑しそうに笑って首を振った。
「そんなこと別に気にしなくていいよ。それより帰ってくる間、色々話できた? 遼も正人に逢いたがってただろう」
「あ、うん」
にっこりと笑って正人と目を合わすと、遼はうんうんと頷いた。遼も正人としっかり意気投合できたようだ。
「そういえばさ、伸。バスの中で、遼にこっちでのお前の生活とか聞いてたんだけどさ。お前、みんなのお母さんなんだって?」
「誰がお母さんだ。誰が」
にやにやと笑ってそう聞いてきた正人に伸は呆れた顔を向けた。
「意気投合するにも限度があるんじゃない。まったく、人をネタにして何の話をしてたんだか……」
「で、今日の夕飯は肉じゃがってマジ?」
伸の言葉を遮ってまで、さらに正人が身を乗り出して詰め寄る。伸は呆れた表情のまま、はいはいと大きく頷いた。
「マジマジ。今日は君の大好物の毛利家特製肉じゃがだよ。有り難く思え」
「ラッキー!」
「それと、あと1品、リクエスト権を進呈するよ。材料はほうれん草か茄子。どっちがいい?」
「じゃあ、茄子の揚げ煮。お汁は甘めで」
「了解」
まるで毎日そういった会話をしているように自然に言葉を交わしあった2人は、ついに吹き出して笑いだした。
「ほんっと相変わらず。ちっとも変わってない」
「それはお互い様だろ」
「料理の腕は、上がったよ。かなり」
「それは楽しみだなあ。やっぱ此処には欠食児童が多いってことか?」
「君も充分そのうちの一人だけどね」
ひとしきり笑いあってから、伸はようやく夕飯づくりの続きをするためにキッチンへと足を向けた。
「じゃあ、僕はキッチンに戻るから、正人のことよろしくね」
「わかった」
遼が頷くのを確認して、パタパタと伸がキッチンへ姿を消すと、待ってましたとばかりに居間から秀が顔を覗かせた。
「ほら、早く上がってこいよ。正人」
「あ、うん。じゃお邪魔します」
正人が靴を脱いでようやく家に上がると、秀が嬉しそうに廊下へ飛び出してきてさっと正人の前に手を差しだした。
「よう、正人。初めまして。オレは秀麗黄」
「あ、よろしく」
軽く握手をかわそうと正人が秀の差しだした手を握り返すと、秀は正人の手を両手で握り込み、ブンブンと力一杯大きく振った。あまりの勢いに正人の身体がグラグラ揺れる。
「お……おいっ!」
「よろしく。よくきたな、正人。おかえりっっ!」
そして、そのままの勢いでガシッと正人の身体を抱きしめる。どう反応していいのか分からず、正人の視線が宙を漂うと、それを見越したかのように、居間から今度は征士が顔を出した。
「秀、あまり突飛な行動をするな。正人が戸惑っているではないか」
「何が突飛な行動だよ。これは親交の証だぜ」
呆れた表情で秀の隣に立った征士の顔を見て、正人が懐かしそうにふと目を細める。
「あ……」
征士が無言で頭を下げると、正人も小さく会釈した。
「久しぶり」
「……ああ」
「コウ……か」
「今は伊達征士という。おかえり。正人」
「…………」
「では、二階へ案内しよう。部屋は伸と一緒でいいな」
そう言って征士は当たり前のように正人から荷物を受け取り、肩に背負うと先に立って歩きだした。
慌てて正人も征士の後を追う。
「伸の部屋って……あの……そこにオレが転がり込んで大丈夫なのか? っていうかオレ……」
泊まりだなんて言ってない、と言いかける正人を遮って秀がニッと笑いながら親指を突きだした。
「大丈夫大丈夫。オレは遼んとこに行くから、ゆっくりしてってくれよ。もちろん今夜は泊まりだろ」
「え……あの……」
「そんなつもりなかった、なんて言ったって帰さねえぜ。話したいこと山ほどあんだから。オレもみんなも、もちろん伸もな。お前が帰ってくるのどれだけ待ってたと思ってんだ?」
「帰って……?」
戸惑った表情で、正人が立ち止まった。
「そうか……秀のベッドを借りるのなら、シーツを替えなくてはならんな」
征士がくそ真面目な表情でつぶやいたので、秀が大口を開けて笑いだす。
「別にオレのベッド使わなくても、伸のベッドに潜り込めばいいんじゃ……っで!?」
秀の言葉が最後まで終わらないうちに当麻の鉄拳が秀の頭を直撃する。
「痛ってえなあ、男の嫉妬は醜いぞ、当麻」
「五月蠅い」
苦虫を噛み潰したような表情で、当麻は正人に顎を突き出すように無遠慮な会釈をした。
「おかえり、正人」
「…………え?」
「おかえり」
真っ直ぐに正人を見てそう言うと、当麻がようやく皮肉な笑みを浮かべて額の横に二本指を立てた手を添えた。
「…………」
その合図は、天城がよくやっていたお帰りなさいの合図。
烈火が戻るといつもそうやって天城は自分達のリーダーを迎えたのだ。
「あ、ああ…………ただいま、羽柴」
つぶやくように、正人が答えた。

 

――――――征士の後に続いて階段を登りながら、正人はふと家の中を見回した。
登るたびにギシッと音がする古めかしい階段。温かな色の壁。キッチンから漂ってくる美味しそうな匂い。
なんだか、とても懐かしい気がするのは気のせいだろうか。
「おかえり……か」
ぽつりとつぶやいた正人の言葉に先を行く征士の足が止まった。
「何か言ったか?」
「あ……うん。やっぱ、お前等って不思議だなあって思ってさ」
「どういうことだ?」
立ち止まった征士は、そのままくるりと正人の方に身体を向ける。
人と対面する時、きちんと身体毎向き合う癖は、今も変わっていないのだ。
そんなことを思いながら、正人は嬉しそうに笑みをこぼした。
「伸はともかく、まさかみんなにおかえりって言われるとは思わなかった」
「何故?」
「何故って、オレ、此処に来るの初めてだぜ。普通はいらっしゃいとか、そういった挨拶になるもんだろう?」
「確かに、お前はこの家に来るのは初めてかもしれないが、この場所は初めてではないだろう」
「…………」
「此処は、私達の居場所だ。つまり、それはお前の居場所でもあるということだ」
当然のように征士はそう言った。昔と同じ瞳をして。
「オレ達の居場所……か……」
ふと目を閉じる。
やはり、懐かしい空気の匂いがした。
「やっと辿り着いたんだな。みんな。此処に」
「ああ、そうだ」
穏やかな表情で征士は正人を見た。
正人の顔が記憶にあるよりも少しだけ精悍さを増したように感じるのは、初めて見た時からもう何年も経っているからなのだろうか。
正人自身に征士が逢うのはこれで2度目。
前回は、ほんの一瞬すれ違っただけで、目を合わせるのが精一杯だった。いや、あの時は必死で、まともに何も見ていなかった。でも、印象だけは、やけに強く残っている。
健康そうな肌。短く刈った髪。印象的な瞳。
烈火と同じ、印象的な黒曜石の瞳をした少年。
「…………」
逢いたいんだろう。
そう訊いてきた遼の声がよみがえる。
そう。確かに逢いたかった。
逢いたかったのは、誰だろう。
自分なのか、夜光なのか。
「征士……って言ったっけ。今の名前」
正人が訊いた。征士はこくりと頷く。
「なあ、征って呼んでいいか?」
「ああ」
そう呼ばれることを、自分は心の何処かで期待していた。
「ああ、もちろん」
もう一度、征士が頷いた。

 

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