天の河越えて(8)

小さなメモを片手に、その少年は電信柱に書いてあるこの地区の番地を確認しているようだった。
しばらくその少年の姿を目で追っていた遼は、少年が角を曲がったとたん走りだして、少年の目の前に飛び出した。
「捜しものか?」
「…………!?」
遼の声に驚いて少年が顔を上げる。再び、遼の心臓の鼓動がドクンと鳴った。
「あれ……? お前……」
「ば……場所が分からないんなら、オレが連れてってやろうか」
必死の形相でそう言った遼に、少年はあんぐりと口を開けた。
「連れて行って……?」
「あ、ああ」
「…………」
少年は明らかに不審そうな目つきで遼を見つめている。
「あ……オレ、別に怪しい者じゃないから……その……つまり、オレ……」
慌ててしどろもどろの言い訳を始めた遼に向かって少年が可笑しそうにくすりと笑った。
「怪しい者じゃない、か……これはまた使い古されたナンパの手口みたいな言葉だな。しかも男相手に」
「……なっ!!」
「充分怪しい奴に見えるぜ、ナンパ少年」
ボッと遼の顔から火が吹いた。
「だ、誰がナンパだ。せっかく人が親切に……あーもういい。声かけて損した」
くるりと踵を返して背中を向けた遼の袖を少年が慌てて掴む。
「ああ、悪かった。冗談だよ。冗談。ジョークが通じねえ奴だな……」
言いかけた少年の言葉が途切れる。
「あれ?」
少年が目を瞬いてじっと遼を見つめた。
「お前……?」
「……な…何だよ」
思わず、どう反応していいか分からず、遼も言葉を濁らせる。
しばらくの間、何となくそうやってお互いのことを見つめ合っていた2人は、やがて気まずそうに同時に目を反らした。
何か話さなくちゃ。というか、こういう時、どうやって切り出せばいいんだろう。
遼が必死で言葉を探しているその時。
「あっ!!」
突然、少年が空を指差して大声をあげた。
「流れ星」
「えっ? 何処?」
とっさに遼も空を見上げる。
「ほら、あっちの空」
「どっち?」
「東だよ東」
「だから何処だよ」
「あーあ、消えちまった。惜しいな。願い事しそこなった」
ぷいっと口を尖らし、そのまま少年は空を見上げて残念そうにつぶやく。
「やっぱ一瞬だと願い事してる暇なんてないなあ……」
「…………」
じっと少年の横顔を見つめていた遼は、ようやくごくりと唾を飲み込んで大きく口を開いた。
「大丈夫。お前の願い事はもうすぐ叶うから」
「……えっ?」
少年が驚いて遼を振り返った。
落ち着け。落ち着くんだ。真田遼。
自分で自分にそう言い聞かせながら、遼はじっと穴の開く程その少年の顔を見据えた。
「お前……」
「…………」
「お前、伸に逢いに来たんだろ。案内するよ」
「あ……まさか……」
少年が大きく瞬きをする。
「お前、もしかして……」
「来いよ。連れてってやるから」
「…………」
「ちゃんと、オレが伸の所へ連れてってやるから」
「…………」
「……行こう」
遼の言葉に、ようやく正人は力強く頷いた。
「……ああ、頼む。助かるよ」

 

――――――逢いたくて逢いたくて逢いたくて。あれほどまでに逢いたいと思っていたのに、いざ逢ってしまうと、何故こんなにまで緊張するのだろう。
正人の前に立って柳生邸への帰路を歩きながら、遼はずっと鳴り続けている鼓動を抑えることが出来ず、不必要なほど大きく息を吸い込んでは吐くという行為を繰り返していた。
「なあ、お前……真田だっけ」
「遼でいいよ」
「じゃあ、遼。お前、何緊張してんだ?」
後ろからそう声をかけられ、遼は思わず立ち止まって正人を振り返った。
「べ……別に緊張してないぞ、オレ」
「めっちゃしてるだろ。声裏返ってるぜ」
くすりと笑いながら正人が言った。
かあっと頬が熱くなってくるのが分かる。
「オ……オレは……」
「いいよ隠さなくても。オレだって同じくらい緊張してんだから」
肩をすくめながら正人はそう言って、もう一度くすりと笑った。やはり遼の目には緊張しているようにはどうしても見えない。
「その態度のどこが緊張してんだよ。すげえ余裕の表情に見えるぞ」
「ああ、オレ、緊張すると笑っちまうんだよ。そういうことないか?」
その証拠にオレの手を触って見ろよと差し出された正人の手は、確かに意外なほど汗ばんで震えていた。
「…………」
「な?」
照れたように笑いながら、正人は震えを抑えるようにもう片方の手で自分の手を包み込む。
「ずっと……さ。不安で不安で仕方なかったんだ。マジな話」
「なんで不安なんだよ。伸はすげえ喜んでたぞ。正人が来るって聞いて」
素直にそう問い返してきた遼の言葉に正人は思わず苦笑した。
「嬉しければ嬉しいほど、不安っていうのは倍増するもんなんだよ。色々とやっかいなことが多くてさ。それに、オレ、伸に逢うことも確かに不安だったんだけど、お前達にも……だよ」
「…………?」
「オレ、本当にお前に逢ってもいいのかなって思っててさ。それもちょっと不安だった原因のひとつだな」
「オレに? なんで?」
心底不思議そうに遼は首を傾げた。
そんな遼の表情を見て、微かに顔を歪めて正人が笑った。
それは何だか寂しそうな笑顔で、遼にとっては初めて見る顔のはずなのに、何だかとても懐かしいような気がした。
自分はこの表情を知っている。遙か昔から知っている。
「なあ、正人」
ふと、真剣な表情で遼が正人に向き直った。
「何だ?」
「お前、今でも烈火の意識はあるのか?」
「……え……?」
一瞬戸惑ったように口を閉じ、正人は次いで小さく首を振った。
「いいや、ないよ」
「…………」
「もともとオレは烈火だったわけじゃないしな。そこんところは羽柴が全部知ってるだろう。聞いたことないか?」
「いや……でも……」
反論しかけた遼の言葉を遮り、正人は唇の前に指を立てる。
「大丈夫。お前の言いたいことは分かるから」
「…………」
「オレには烈火の声は聞こえない。もう意識を共有することもない。お前の問いに対する答えはこれだ。……でも、解る。此処に居るんだなあっていうのは解るよ」
そう言って、正人は自分の心臓を指差した。
「此処に居るんだって感じるんだ。お前と同じように」
「えっ?」
遼が目を見開いた。正人はその黒曜石の瞳で、真っ直ぐに遼を見つめ返す。
「お前と同じだよ」
そして、正人はゆっくりとそう繰り返した。
漆黒の。黒曜石の瞳。烈火の瞳。
ああ、本当にこの男は正人なんだ。
今更ながらにそう思って、遼は知らず、つぶやいた。
「烈火、オレ、貴方に逢えてやっぱりめちゃくちゃ嬉しい」
「え?」
思った通り、正人が不思議そうな顔をする。
「帰ってきてくれてありがとう、烈火」
烈火。皆のリーダー。強くて弱かった、大切な彼の人。
帰ってきてくれて有り難う。
正人は困ったように眉を寄せた。
「何言ってんだ、烈火はお前だろ。遼」
「いや、そうじゃなくて……」
「お前だよ。烈火は」
「…………」
「お前なんだよ」
そう言ってくしゃりと掻き回された髪の毛が、少し痛くて少し嬉しくて。
烈火。
遼は何度も心の中でそうつぶやき続けた。 

 

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