天の河越えて(7)

「それじゃ、楽しんでこいな」
ニッと笑って、トビーは正人を送り出した。
「どうせ一晩中しゃべってたって終わらないくらい積もる話があるんだろう? ゆっくりしてこいよ」
「えっ…いや、オレは別に泊まりに行く訳じゃないし、そこまで迷惑かけ……」
「迷惑じゃないだろ? 久しぶりの訪問は。あっちだって楽しみにしてるんだろうが」
「あ、いや、それは……」
「いいから。いいから。とにかくゆっくりしてこい。一応このホテルにお前の部屋は確保してあるけど、いつでもキャンセルはOKだからな。状況が分かったらすぐに電話してこいよ。大丈夫。明日朝10時のチェックアウトの時間までに戻ってきてくれればいいから」
脳天気にそう言ったトビーの言葉を否定することも出来ず、正人は小型のナップサックを背に横浜から小田原へ向かう電車に乗り込んだ。
確かに子供時代、自分達は事前連絡など一切ないままお互いの家に泊まりあうことが多かった。
そして、そのまま一晩中くだらないおしゃべりに花を咲かせていたのだ。
そして、それは2人にとって当たり前のことだった。
今でも伸はあの頃のまま、正人の来訪を待ってくれているのだろうか。
あの頃、『どっちが自分の家なのか分かんないんじゃないの? あんたたち』と、伸の姉、小夜子によく言われた。
『私なんかよりよっぽど本当の兄弟みたいね』とも。
伸と違って正人は一人っ子だった。だから、男兄弟にも女兄弟にも憧れていた。
だから、伸の家に居ることは、とても居心地が良かったのだ。
伸にとってもそうだろう。
正人の家は二親とも揃っていた。
伸は家に来るたび、正人の父親と楽しそうに話していた。
中学にあがった頃からは、父親の頼みで将棋の相手までさせられて。というか、正人の父親の相手をするために伸は将棋を覚えたようなものだ。
『嫌なら無理につき合わなくていいんだぞ』と言った正人に対し、伸は、『ちっとも嫌じゃない。楽しいからつき合ってるんだ』と笑って言い切った。
きっと、自分達は色々な部分で、お互いを羨ましいと思っていたのだ。そして、お互いの中に自分達に足りない部分を見つけ、お互いで補おうとしていたのだ。
まるで、失ってしまった欠片の半分が相手の中にあるのではないかと無意識に思っていたかのように。
「…………」
そっと正人は自分の胸に手を当ててみた。
心臓の鼓動を感じる。
ドクンドクンドクン。
小さく息を吸い込むと、とたんに正人の中に別の意識が流れ込んできた。
逢いたい。
鼓動が大きくなる。これはきっと自分ではない。烈火の鼓動だ。
そう感じると、やはり少しだけ不安になる。
自分であって、自分でない心を感じて、少しだけ不安になる。
「違う。そうじゃない」
窓の外を流れる景色を見ながら、正人は小さくつぶやいた。
そうじゃない。何が。
自分で言っていて自分の言葉が解らなくなる。正人は大きく深呼吸してそっと目を閉じた。
愛おしいと思う気持ちが誰のものなのか。今は忘れていたい。
何故なら、伸は、水凪は、自分を受け入れてくれたのだから。また逢おうと。烈火であって烈火でない自分にそう言ってくれたのだから。
だから大丈夫。
この気持ちごと持っていくから。
逢いにに行くから。
烈火の想いを持ったまま、正人として、逢いに行くから。
ゆっくりと目を開けた正人を迎えるように、窓の外の景色が変わっていった。
小田原の景色だった。
中華街に占領されたような横浜の景色と違い、小田原はなんだか、本当に日本という感じがする。
トビーにつき合って京都や奈良に行っても、あまり日本に帰ってきたという気はしなかった。
確かにあの土地も日本なのだが、あそこは日本に帰ってきたのではなく、日本に来た。という感じがするのだ。
それなのに、何故だろう。
窓の外に見える小田原の景色が懐かしいと思う。日本なのだと思う。故郷なのだと思う。
もしかして、初めてやって来た小田原を懐かしいと思うのは、此処が伸の第二の故郷になりつつあるからなのだろうか。
駅のホームに降り立って、正人は胸一杯に温かい空気を吸い込んだ。
本当に、本当に、帰ってきたのだという気がした。

 

――――――「あ、しまった」
冷蔵庫の前で、伸が頭を抱えてしゃがみ込んでいるのに気付き、遼はじゃがいもを両手に抱えたまま伸の隣に一緒になってしゃがみ込んだ。
「どうした? 伸」
「あのさ、遼……」
「何だ?」
「今日の献立なんだけど……」
「ああ」
「君のリクエストの肉じゃが……なんだけど……」
「うん」
「……他のにしない?」
伸の突然の提案に、遼は眉間に皺をよせた。
「何で? ジャガイモだって洗ったんだし、肉もしらたきも用意したんだぜ」
伸は顔の前でお詫びをするように両手を合わせた。
「お醤油切らしちゃったみたいで……その……」
「醤油?」
よりによって醤油を切らせてしまったのでは、肉じゃがは出来ない。というか、日本風の料理、俗に言う「母親の味」的な料理は期待できないではないか。それは困る。
遼は持っていたジャガイモをテーブルの上に置いて腕を組んだ。
「珍しいな。伸がそんなミス。なんで買い置きしておかなかったんだ?」
「いや、実は今日安売りするってチラシに書いてあったんで、残り少なかったの分かってたんだけど買わずに待ってたんだ。で……」
「で、その当日、すーっかり忘れたわけだ」
「面目ない」
しゅんとなった伸を見て、遼はおもわずくすりと笑みを洩らした。
「ホント、珍しいな。そんなに他のことに気がいってたのか?」
「えっ……いや、そういうわけじゃないんだけど……ついうっかりっていうか、もう完全に忘れてた。今の今まで。ごめん」
素直に謝る伸の姿がやけに可愛らしく見え、遼はつい声をたてて笑いだした。
「じゃ、いいよ。オレが今からひとっ走り行って買ってくるから」
「え、でも、今からなんて悪いよ。行くんなら僕が……」
「いいって。リクエストしたのはオレなんだし。それに伸は家に居てくれないと困るじゃないか。すれ違ったら嫌だろう」
「えっ……」
「もうそろそろ正人が来るんだろう。せっかく家に着いた時、お前がいないんじゃ、さまにならないじゃないか。それに、伸は作るの担当。オレは材料調達係。さすがにその安売りのスーパーじゃ売り切れてるかも知れないけど、そん時は近くを探してくるから」
「でも……」
「いいから。じゃあ、行ってくる」
言うが早いか、遼はささっと手を洗い、つけていたエプロンを外すと早速キッチンを飛び出していった。
伸は走り去っていく遼の背中に感謝を込めた視線を投げる。
正人が来る。
言葉にされると、改めて自覚してしまう。自分がそのことでかなり浮き足だってしまっていることを。
「……ありがとう、遼」
小さくつぶやき、伸はキッチンの椅子に腰を降ろすと、ジャガイモの皮を剥き始めた。

 

――――――バスに飛び乗り、遼は近くの商店街までやってきた。
ほんの少し日が傾きかけた商店街の中央通り。目的のスーパーはすぐ目の前だ。
「…………?」
なんだかいつもに比べてやけに人通りが多い気がして、遼はスーパーの前で立ち止まると辺りを見回した。
「何かあったっけ? あ、そうか」
人の向かう先へ目を凝らしてようやく遼は分かったといった風にポンッと両手を打った。
よくよく見ると、親子連れの姿がやけに多い。しかもその親子連れは皆同じ方向へ歩いて行っているようだ。
「七夕のイベントだ」
そう。確か今日、近所の公民館で映画の上映会があったはずなのだ。きっと皆それを目指して来ているのだろう。
この地区では、小学生を対象に毎年七夕の日一日だけ、アニメの上映会がある。遼はちょうど近くの掲示板に貼ってあった今年の上映演目を書いたポスターを覗き込んだ。
演目は、七夕のストーリー、織り姫と彦星の20分ほどの短編作品と、あと『銀河鉄道の夜』だ。
「へえ、懐かしいなあ……」
銀河鉄道の夜は、宮澤賢治好きの伸が特に好んでいた映画だったはずだ。
主要人物の顔が全部猫になっているのを見て、『何で人間じゃないんだ?』って訊いたら、伸は『そこがいいんだよ。幻想的だろう』と言って笑った。
そして、そのあと少しだけ寂しそうに言ったのだ。自分はザネリなのだと。
「ザネリ? なんで? どういうことだよ」
ザネリというのはいじめっ子の代表で、主人公のジョバンニをいつも苛めていた少年だったはずだ。伸のイメージとはかけ離れているように見えるのに、どうしてそんなことを言うのだろうと、遼はあの時本気で不思議に思ったのだ。
「何でザネリ? お前はどっちかって言うとカムパネルラだと思うけどなあ」
遼がそう言うと、伸は微かに笑った。
「ありがと。でも、僕はカムパネルラにはなれない。だって誰のことも助けられなかったから」
「…………」
「カムパネルラはザネリを助けて死んでしまった。僕はカムパネルラに助けられたまま自分だけが生き延びたザネリだよ」
何とも言えない表情をして伸はそう言った。
あれは正人が死んだという知らせを受けたあとの事だったような気がする。今思うと。
もしかしたら、歪んだ時空の何処かで、未だに正人が居ない世界も存在しているのだろうか。だとしたらその世界の伸は、まだ、今でも自分のことをザネリだと思い続けているのだろうか。
そう考えると、なんだかとても切なくなった。
「…………あれ?」
その時、ようやく人通りの少なくなってきた商店街の中、一人の少年が荷物を抱えてキョロキョロと辺りを見回しているのが遼の目に飛び込んできた。
「…………!?」
ドキンっと心臓が高鳴った。
「……あ……」
もしかして。もしかして、そうなのだろうか。
遼は、その少年の顔を確かめる為に、少年の元に向かって駆けだした。

 

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