天の河越えて(6)

「正人が…………?」
書斎で2人きりの時に話すか、キッチンで夕食を作るのを手伝っている時に話すか、伸の部屋を尋ねて行くか、散々に迷ったあげく、当麻は結局夕食後、皆がそろった居間で正人の来訪の予定を告げた。
「マジ? いつ?」
秀が身を乗り出して当麻をつつく。
「七夕の晩だってさ。まるで彦星みたいだよな」
渋い顔をしている当麻に代わって遼が秀の質問に答えてあげると、征士が何故遼が知っているのだというように疑問の視線を投げかけた。遼は征士の視線を受け止め、にこりと笑う。
「実はオレ、偶然、2人が電話してるところに通りかかったんだよ。正人はもう日本に着いてて、今日は京都に居るんだってさ」
「京都?」
征士が聞き返すと、遼はそうそうと首を縦に振った。そんな遼の言葉を引き継ぐように、ようやく当麻が口を開く。
「やっこさん、向こうの学校の友人が日本へ旅行に来るってんで、通訳を頼まれたらしい。日本の伝統の地をいくつか廻って、7日に横浜に来るんだと。で、時間が空くからちょっと小田原まで来てもいいかって」
「……正人が……来る」
伸が噛みしめるようにつぶやいて、まるでお祈りをするかのようなポーズで胸の前で拳を握りしめた。
そして、ゆっくりと目を閉じる。
自分が言った言葉を心の中で反芻する為に。
正人が来る。
「正人が来る……」
「良かったな、伸」
そっと当麻がそう言うと、伸は微かに頷いた。
ふわりと揺れた栗色の前髪が、悔しいくらいに眩しく見える。
「なるほど、そういうことか……」
腕を組んでそうつぶやいた征士の紫水晶の瞳が、ほんの一瞬揺らいだ。
「本当にもうすぐそこまで近づいているというわけだな」
「ああ」
ようやく納得がいったという表情で征士は小さく頷いた。
「だからか……ようやく分かった」
「だからって? 何が?」
秀が不思議そうに訪ねる。
「お前、何か知ってたのか?」
「いや、そうではないのだが、ただ……声が……」
「……えっ?」
当麻がはっとして顔を上げ、征士を見ると、その時、征士の瞳の中に懐かしい面影が一瞬現れては消えた。
もうすぐそこまで近づいている。征士はそう言った。
近づいている。
誰が。
当麻はもう一度征士の紫水晶の瞳を凝視する。
誰が。誰が近づいているって。
「征……あの……」
「やっぱり分かるんだな。征士には」
突然、遼が感心したようにつぶやいた。
「やっぱ、すごいや。みんな」
「……みんな?」
どういうことだと言いたげに、伸が遼に顔を向けた。
「遼……?」
「征士だけじゃない。伸だって言ってたじゃないか。声が届いたって。声が聞こえたって。みんなちゃんと繋がってるんだ。すごい」
遼は少しだけ寂しそうに、でもやはり嬉しそうに微笑んだ。
「だって、征士は烈火の声を聞いたんだろ。だから……」
「…………!?」
「烈火が近くに来ていることが分かってたんだろ。やっぱすごいな……」
征士の紫水晶の瞳が揺れる。それは確かな肯定の意味。
「すごい……」
どれほどの時間も、どれほどの距離も関係ない。ただ、分かる。理屈ではなく分かる。
そう。声が聞こえるのだ。懐かしい彼の人の。遥か昔、共に過ごした懐かしい彼の人の。
声が聞こえる。
これほどまでにはっきりと。
「……逢いたいんだろう?」
親友に。
遼がそう訊くと、征士は小さく頷いた。
「そう……だな」
揺れる黄金の髪が遠い彼の人を思い出させる。
「オレも逢いたいね。早く。正人にも烈火にも」
秀がそう言いながら、ソファに身体を投げだし、大きく伸びをした。
「2人共に逢いたいね。やっぱ」
正人に逢いたい。烈火に逢いたい。
「うん。オレも逢いたい」
秀の言葉を引き継ぐように、遼が静かに言った。
「これで、やっと、本当に逢えるんだ。烈火に」
伸がちらりと遼を見た。
「烈火に、逢えるんだ」
「…………」
「だから、嬉しい。やっと逢えるんだ。めちゃくちゃ嬉しい……」
ようやく。ようやく分かった気がした。
当麻はふと遼から視線を逸らせた。
そういうことか。そういうことなのか。遼。それが、逢いたいという意味だったのか。
「それにしても、7日かー、待ち遠しいな。早く逢いたいだろ、伸」
秀が嬉しそうに伸の顔を覗き込んだ。伸は少し紅潮した頬で、秀の視線に答えるように小さく頷く。
「そうだね。待ち遠しいね」
「オレ、正人に逢うの初めてなんだよなー。なんだっけ、ほら、伸が持ってる緑の絵本に挟まってた昔の写真くらいでしか顔も見たことないし」
「そっか……そうだったね。秀は正人に逢ったことないんだ。でも、逢ったらきっと気が合うと思うよ」
にこりと笑って、伸は秀にそう言った。
「よく似てるからね。君と正人って」
温かくて、明るくて、純粋で、真っ直ぐで。ひたすらに真っ直ぐで。
「え? 似てるのか? オレ達って」
秀が嬉しそうにはしゃいだので、伸はくすりと笑いながら、肩をすくめた。。
「そうだね。単純でお調子者でバカなところとか、とてもよく似ているよ」
「おまえなあ〜、それって全然誉め言葉じゃねえぞ」
「だって誰も誉めてないもん。似てるっていうのは、誉めてるってことじゃないだろ」
「うぅー」
眉間をコイル巻きにして、秀がうなった。
秀の不満そうな顔に、ついに伸が吹き出して笑い出す。
そんなみんなの光景を眺めながら、当麻が小さくため息をついた。
逢いたい。確かに自分もそう思ってる。心の何処かで。
あいつに。あの人に、逢いたい。
逢いたい。逢いたい。逢いたい。でも、逢うのは、やはり少し恐い。
そんなふうに思っている自分は、きっとまだまだガキなのだろう。
「なーに複雑な表情してんだよ。当麻。お前だって逢いたいんだろ。素直になれよ。そんなんじゃ、奴に勝てないぞ」
秀がにやにや笑いながら当麻を指差した。
「勝つとはなんだ。正人は敵ではないぞ、秀」
征士がムッとして秀をたしなめると、秀はそうじゃないと言いながらソファに頭をこすりつけた。
「敵さんじゃねえけど、ライバルだろ。な、当麻。何たって相手はあの烈火とタッグ組んでんだぜ」
「うるせーよ。このクソじじい」
「うわっ、懐かしい呼び方すんなー。この天の邪鬼。悔しかったら、お前も強くなれよ」
「わーってるよ。言われなくても。んなことくらい」
烈火が来る。それだけで、何だかまるで皆の時間が遡っていくような気がするのは、きっと錯覚ではないだろう。
「ガキ」
「どうせガキだよ」
不毛な言い争いが続く中、征士はやれやれと天上を振り仰いだ。

 

――――――「君の予感、当たったね」
早々に書斎に引っ込んだ当麻の後を追うように書斎に顔を出した伸は、そう言って当麻にコーヒーを差し出した。
「予感?」
コーヒーを受け取りながら、当麻は何のことだと言いたげに伸を見る。
「オレ、なんか言ったっけ?」
「ほら、この間、君が言ったんじゃないか。良い夢を見たのは良いことが起こる前兆だって」
ああ、そのことか。
当麻はコクリとコーヒーを飲む。今日のコーヒーは濃いめのブラックコーヒー。当麻がもっともよく好んで飲む味だ。
「あれは予感じゃない。確信だ」
当麻の返答に伸は意外そうに目を丸くし、そのままデスクのそばのソファに腰を下ろした。
「確信ってどういうこと? 君はもっと前から正人がこっちに来るって知っての?」
「いいや。知らないよ。でも、あいつはお前にメールを寄越したじゃないか。だから、こうなることは分かってたんだ」
「メールってあの?」
当麻はコクリと頷いた。伸はますます不思議そうに眉根を寄せる。
「でも、あのメールに書いてあったのは『会いに行く』じゃなくて『逢いたい」だよ」
「それでもだよ。もしあいつがメールを寄越さなかったら、きっとあいつは此処に来ていない」
「……えっ?」
「いいか。考えてるだけじゃ成されないことも、一旦言葉に出してしまえば、それは現実のものとなるんだ。あいつはそれを実行しただけだ」
「…………」
やけに断定的に言う当麻の口調に伸はまだ納得いかなげに視線を宙にさまよわせた。
逢いたいと書かれた一通のメール。
確かにあれがすべての発端だったのかも知れない。でも、だからといって、今回の正人の日本帰国にあのメールが関係しているなんてことはあり得ないはずなのに。
伸が不思議そうな表情のままなのに気づき、当麻はふっと表情を和らげて、くるりと回転椅子を回転させてソファに座る伸に向き直った。
「なあ、言霊って分かるか?」
ほんの少し目を細めて当麻はそう訊いてきた。
「言霊?」
「そう。言霊だ」
「それって、言葉に霊が宿るっていう……精霊とかの……」
「そうだな。精霊の一種でもあるんだが。あの言霊ってのの霊とは、魂って意味もある。いいか、言葉ってのは、頭の中に思い描いているだけじゃ、魂は宿らない。言葉として発することで、初めて魂が言葉の中に宿るんだ」
「…………」
「あいつは、『逢いたい』という言霊をおまえに向けて発信した。そしておまえはそれを受けて、あいつに向かって言霊を返した」
「言霊を……」
「だから、想いは現実となって現れた。あいつの逢いたいという想いに魂が宿ったんだ」
魂の入った言葉。
そういう意味なら分かる。なぜなら自分自身も言ったではないか。言ってしまったらもっと逢いたくなる。想っているだけの状態より、言葉に発するということだけで、なぜ、歯止めが利かなくなるのか。
心の何処かで理解していた。
言ってしまったら、歯止めは利かない。きっと、それも魂。言葉の魂のひとつ。
「なるほどね。そういうことか」
「そういうことだ」
「当麻……」
そっと名前を呼んで、伸はソファから立ち上がると一歩当麻に近づいた。
「……伸?」
間近に立つ伸を当麻が不思議そうな表情で見上げると、伸は柔らかな笑みを表情に浮かべてゆっくりと手を差し出すと、当麻の髪を梳いた。
「大丈夫。此処にいるから」
「……え……?」
「此処にいるからね。僕は」
そう言って、伸はそのままゆっくりと当麻の肩に額を寄せた。
「ずっと、此処にいるから」
想いに魂が宿るよう、言葉に乗せて。
静かに伸はそう言った。

 

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