天の河越えて(5)

やはり空気が違う。日本の地へ降り立った途端、正人はそう思った。
緯度的にはさほど違いはないはずの日本とイギリス。暑さや寒さの度合いもそんなに大幅に違うわけではなかったはずなのに、それでも確実に日本には日本の。イギリスにはイギリスの独特の空気があった。
日本に来たからには、やはり伝統文化に触れたいというトビーの希望により、正人はまず最初に、奈良の有名な数々の建築物や仏像、中でも特にお薦めである興福寺の阿修羅像を案内し、その後、有名な鹿公園へと連れて行った。
お決まりの観光コース。まるでガイドブックに載ってるコースそのままではないかと思いながらも、正人だってそうそう日本全国知っているわけでもない。まあ、こんなものだろうと苦笑しながら、正人は公園内を自由に歩き回っているたくさんの鹿の群れに目を向けた。
「奈良かあ……」
小さくつぶやいてみる。
奈良は、小学校の時修学旅行で来たきりの場所であり、正人にとっても2度目の来訪の地だ。
修学旅行。あの時は隣に伸がいた。当たり前のように。
小さな手で鹿にせんべいをあげていた姿を、今でもすぐに思い出せる。
「…………」
ふと、正人の歩みが止まった。心の奥がかすかに熱くなる。正人の心の奥の奥で、烈火が気付いているのだろうか。あの子が近くに居るということを。こんなに近くにまで来たのだということを。
「どうした? マサト。知り合いでもいたのか?」
急に立ち止まった正人の顔を覗き込んでトビーが聞いてきた。
「え……あ、違うよ。奈良に知り合いはいない。ちょっと似た奴がいたから……」
「似た奴? どれ?」
「えと……あれ」
咄嗟に指差した淡い栗色の髪の子がタイミング良く正人達の方に顔を向けた。
「おー、美少女!!」
「えっ?」
慌てて正人は指していた指を降ろす。まさか咄嗟のこととはいえ、女の子を指差したなんて。誤解されたらやばいではないか。というか、これはまずいだろう。やはり。
思った通り、トビーはにやにや笑いながら、正人とその少女を見比べると、肘で正人の脇腹を突いてきた。
「なに、あの子、お前の彼女に似てるのか?」
「か……彼女!?」
あまりの言葉に正人が素っ頓狂な声をあげると、トビーは可笑しそうに大声で笑いだした。
「何だよ。今更照れることないぜ。お前が日本に彼女を残してきてるっての、結構有名な話じゃんか」
「……おい。それは何だ」
いつの間にそんな訳のわからない噂がたっていたんだ。正人は眉間に皺を寄せてトビーを睨みつけた。
「オレに彼女なんていないぞ」
「え? そうだったの?」
トビーの隣でクレアまでもが驚いて目を見開いていた。
おいおいおい。一体どこまでこの妙な噂は広まっているんだ。
「だいたい、いつオレがそんなこと言ったよ」
「言ってないけど、態度見てればそうだと思うじゃない。私の友達にもマサトに気のある子はいたのよ。でも全然脈が無さそうなのって泣いてたんだから」
「…………」
「イギリスに来て随分経つのに、彼女の一人も作ろうとしないのは、絶対日本にいい人が居るんだって、もっぱらの噂だったんだぞ。今回の旅行だって、絶対正人の彼女がどんな子か調べてこいって、オレ密命受けてんだから」
「…………おい」
ここでしゃべっちまったら、密命でもなんでも無いだろう。というか、そもそも誰の意向なんだか。
正人は大げさに肩を落とした。
「何をどう誤解してんのか知らないけど、オレには彼女なんていません。神かけて」
「でも、大事な人はいるでしょ?」
にこりと笑いながら、クレアが言い切った。これは、やはり女の勘ってやつだろうか。
「そっか、そいつが横浜に居るんだ。な、そうだろう? お前、横浜に寄るって言った時、目の色変わったもんなー。7日の晩はそいつに逢いに行くんだろう?」
一大発見をしたようにトビーが身を乗り出して訊いてきた。
「え? いや、それは……」
「そうなんだ。横浜に居るんだ。マサトの大事な人」
「もうじき逢えるぜ。よかったな」
「ホント。良かった。で、どんな人なの?」
「いや、だから……それは……」
「いいじゃない、教えてよ」
「そうだよ。教えろよ、マサト」
これは完全に面白がってるのだろう。この2人は。
正人は大きく肩を落として、ため息をついた。
「どんなも何も、ただの幼馴染みだよ。久し振りなんで顔見に行こうかなあとは思ってるけど……」
「ふーん」
何だか、何もかもが言い訳めいて聞こえるのは気のせいではないだろう。
事実、伸は幼馴染みだ。でも恐らく『ただの』ではない。
クレアの言う、大事な人という言い方は、何だかこそばゆくて好きじゃないが、でもきっと、そういう言い方は間違いではないのかもしれない。
「そっか、良かったな」
そう言って笑ったトビーの顔は、何だか出発前に見たルディの顔と同じに見えた。

 

――――――「分かった。じゃあ、来るのは7日の夕方ってことだな。了解した。……ああ、大丈夫。閉め出したりするかよ。んなことしたらオレがあとで伸に半殺しにされるってば。……ああ、ああ、分かった」
必要以上に受話器を硬く握りしめて、当麻は通話口の先にいる男に向かって頷いた。
「住所は分かってるな。迎えは? なくていいのか? ああ、分かった。じゃあ、待ってるから」
チンっと受話器を置いて当麻は天を仰ぐ。
「はあ……こういう電話を偶然に取るのが、またオレってのは、これは神様の与えた罰か何かだろうか……」
「何が神様の罰なんだ?」
ちょうど廊下に出てきた遼が、当麻の独り言を聞き付けて不思議そうに首を傾げた。
「遼……!」
慌てて当麻は口を閉じる。が、時すでに遅しだろう。さっきの独り言は完全に聞かれていたのだから。
「当麻?」
遼は不思議そうに当麻の顔を覗き込む。
だから、真正面から人の顔を覗き込むんじゃない。このガキは。思わず当麻は後ずさり、壁に背中を押しつけた。
「当麻、何勿体ぶってんだよ」
「別に勿体ぶってなんかねえよ」
「じゃあ、言えよ。誰からの電話なんだ?」
「…………」
相手の名前を言ったら、内容を話したら、遼はどんな反応をするだろう。驚いて、そして、少しだけ嫌な顔をしたりするのだろうか。
そんな予測をたてながら当麻はぼそりとつぶやいた。
「……誰っつーか、そうだな……今、伸が一番逢いたい奴って言ったらわかるか?」
「…………!?」
遼が大きな目を更に大きく見開いた。
「マジ? 本当に? それって正人?」
「あ……ああ」
「何? なんて電話? 内容は?」
たたみかけるように遼は当麻に迫ってきた。多少たじろぎながら、当麻は答える。
「いや……それが、やっこさん、今日本に帰って来てるんだと。友人の付き添いだとか何だとか。で、7日に近くまで来るんで、こっちに寄っていいかって」
「…………」
大きく遼が瞬きをする。
「…………すごい!」
そして次の瞬間、遼は満面の笑みを浮かべて飛び上がった。
「すごい! 来るんだ。正人が。凄い。うわぁー!」
「…………」
遼の反応があまりにも意外で、当麻は思わず絶句した。
「伸には? もう話したのか?」
「え……あ、いや……」
今、電話を受けたばかりでいつ話す暇があったんだ。常識で考えろ。などという反論すらも何も出てくることなく、当麻は驚いた表情のまま遼を見下ろした。
「そっかー。きっと伸、めちゃくちゃ喜ぶぞ。逢いたいって言ってたからなあ。早く知らせなきゃ」
「あ、そ……そうだな」
言葉を濁しながら、当麻も相槌を打つ。
「それにしても、7日かあ、来るのは夜か?」
「ああ、昼過ぎに横浜につくから、友人のお供から解放されるのは夕方だろうって」
「そっかー。すごい偶然だなあ」
当麻が思わず首を傾げた。
「……偶然……? 何が?」
「だってそうじゃないか。7日って言ったら七夕だぜ。七夕。遠く離れて暮らしてる織姫と彦星が逢える唯一の日だろ」
「……七夕?」
「そう」
1年で1度の逢瀬の日。七夕。
「…………」
ちょっと待て。
その逢瀬って、恋人達に対する形容詞じゃないのか。遼はそれを分かって言ってるんだろうか。
当麻は不満そうに眉をひそめた。
遼は恐くないのだろうか。あいつが来ると言うことが、恐くないのだろうか。
「お前……恐くないのか?」
「……えっ?」
思わずそのまま言葉を口にしてしまった当麻に、遼が不思議そうな顔をした。
「恐いって? 当麻は恐いのか?」
「え……あ……いや……」
言われて、考えて、改めて自覚する。自分はやはり怖がっているのだろうか。
「何のこと言ってんのか知らないけど、オレは嬉しいぜ」
「…………」
これが遼の強さなのか。
どうやっても自分が敵わないと思ってしまう、遼の持つ強さなのだろうか。
「当麻は逢いたくないのか?」
「…………」
「当麻?」
「そうだな……逢いたい……かもな……」
「だろう」
ほらみろといった感じで、遼がにこりと笑ったので、当麻もさすがに苦笑するしかなかった。

 

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