天の河越えて(4)

「日本へ帰るの? マサト!」
ルディが大きな目を更に大きく見開いて正人の部屋に駆け込んできた。
旅行鞄に荷物を詰める手を止めて正人が振り返る。
「そう。4日間だけだけど。だからその間は勉強みてやれないけど、サボるんじゃないぞ」
「大丈夫、サボったりしないよー」
言いながら、ルディは嬉しそうに笑い声をあげ、正人のベッドにダイビングした。
スプリングが小さな悲鳴をあげたが、ルディはその音さえも、何かのメロディであるかのように、ベッドの上で楽しそうに身体を踊らせた。何だか妙にはしゃいでいるルディに正人は不思議そうに首を傾げる。
「あのさ、ルディ」
「何? マサト」
「……なんか、めちゃくちゃ嬉しそうじゃないか?」
自分が居なくなるのが嬉しいのだろうか。だとしたら、それはかなりショックかもしれない。
正人のそんな心境など気付きもしないといった感じで、ルディは更に嬉しそうに笑顔を向けてきた。
「うん。だってビックリしたんだもん。とっても嬉しくって」
「ビックリ? 何が?」
ますます分からない。何がビックリで、何が嬉しいのだろう。
「神様って本当に居るんだね。だから、これからはちゃんと真面目にお祈りしようって思った」
「……神様……って?」
ますます言ってることが分からない。何のことを言ってるんだろう。
思わず正人は眉をひそめてしかめっ面をした。
「悪い。ルディ。マジで何の事を言ってるのか分からん。どうしてそこにお祈りや神様の名前が出てくるんだ?」
「あのね、僕ね、この間からずっと祈ってたんだ。こんなに真面目にお祈りしたの初めてってくらい」
「…………?」
ずっと。何を。何を祈ったのだろう。
「ルディ、あの……」
「祈ってたのはね。マサトのことだよ」
「……え?」
今度こそ、本気で驚いて、正人は目を瞬いた。
「オレのこと?」
「そうだよ」
何を。正人の何をこの少年は祈ってなどいたのだろう。
「あのさ……ルディ」
「僕ね、本当に一生懸命お祈りしたんだ。マサトが今、一番逢いたい人に逢えますようにって」
にこりと笑ってルディはそう言った。
正人は言葉を失う。
「…………」
「ここんところ毎日、そればっかりお祈りしてたんだ」
「え……あの……」
「あのメール、日本宛でしょ。マサト、日本に逢いたい人いるんでしょ。僕、絶対そうだと思ったんだけど、違う?」
目をくりっとさせてルディは正人を見上げる。相変わらずの翡翠の瞳で。
「でも、マサト、逢いたいのに逢えなくて寂しいんだよね」
「…………」
「だから、嬉しかったの。これで逢えるよね」
「あ……」
「良かったね。逢えるよね、マサト」
「ルディ……」
「良かったね」
ふわりと笑うルディの顔に懐かしい人の面影が重なる。
どこまでも澄んだ緑の瞳。柔らかな微笑み。大切な大切な小さな命。
いつまでも見守っていたいと思っていた、小さな少年。
死してなお、忘れられなかった、ただ一人の少年。
「マサト?」
じっと自分を見つめる正人の瞳にルディが不思議そうに小首を傾げた。
「マサト? どうかした?」
「いや」
正人は首を振ってくしゃりとルディの髪を掻き回した。
「お前は良い子だな」
「…………?」
「本当に良い子だ」
柔らかいプラチナブロンドの髪が正人の指に絡まる。ルディはくすぐったそうに首をすくめて笑いだした。
ルディといい、トビーといい、まるでみんなが正人が日本へ帰る為に精一杯お膳立てをして、精一杯背中を押そうとしてくれているようだ。
これは、いいということなのだろうか。
帰ってもいいということなのだろうか。
逢いにいってもいいということなのだろうか。
日本への出発は明日。
正人はゆっくり目を閉じて心の中でつぶやいた。
『行こう。烈火。日本へ』
一緒に日本へ行こう。烈火。
あの少年に逢いに。

 

――――――「……えっ?」
突然、伸が振り返ってじいっと遼を見つめた。
「何だ? 伸。オレの顔に何かついてるのか?」
遼が不思議そうに目を丸くする。伸は慌てて、首を振った。
「え……あ、いや……そうじゃなくて……」
「…………?」
「そうじゃなくて……」
今、声が聞こえた。
伸がゆっくりと瞬きをする。
たった今。声が聞こえたのだ。
「伸……?」
自分を呼ぶ懐かしい声。聞き間違うはずもない、声。
声が聞こえた。
「何でもない。ごめん。大丈夫だよ、遼」
ふと表情を和らげて、伸は遼が座っていたソファのそばの床に腰を降ろした。そして、そのままソファの肘掛けに腕を置いて頬杖をつく。伸の表情はなんだかとても倖せそうに見えた。
「伸? ホントどうしたんだ?」
「別に、何でもないよ。ただ……」
「ただ?」
なんだか夢見るような瞳で遼を見上げ、伸はそっとつぶやいた。
「あのメールへの返事、正人に届いたみたい。それが嬉しいんだよ」
「……え?」
驚いて遼は目を見張る。
「メールって、それ、この間届いたっていう?」
「うん」
「でも、あれは返事出さないって……」
問い返す遼に伸は柔らかな笑みを返す。
「うん。メールでは返してない」
「じゃあ……」
どういうことなんだろう。一体。
遼の疑問をかき消すように、伸は柔らかな笑みを浮かべた。
「メールじゃなくて心の中で返したんだ。貰った言葉と同じ言葉を、そっくりそのまま」
言いながら伸はゆっくりと目を閉じる。
「同じ想いを、同じだけ返した。それがきっと、今、届いた」
「伸……」
「届いた」
目を閉じた伸の瞳には、今、海の彼方が見えているのだろうか。
懐かしい彼の人が見えているのだろうか。
逢いたくて、逢いたくて、逢いたくて。
お互いの気持ちが、この海を隔てて繋がった。
まるで、天の川に架かる白鳥の翼で出来た橋のように。
繋がったんだ。
「良かったな、伸」
静かに伸が頷いた。
嬉しくて嬉しくて嬉しくて。
哀しくて。
何だか、泣きそうになった。

 

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