天の河越えて(3)

「あ、いたいた。おーい、マサトー!!」
ガラリとドアを開け、そばかす面の一人の少年が正人の教室に顔を覗かせた。
「マサト、ちょっと頼みたいことがあるんだけどさ、いいか?」
「わかった。ちょっと待って」
急いで鞄の中にノートと教科書をしまい込み、正人は教室のドアの所で待ってるそのそばかす少年トビーの元へと駆け寄る。
「何? 急な用事?」
先日も代弁を頼んできたトビーは、さぼりの常習犯だ。
どうせまた、代弁のお願いか、ノートの貸し出しのお願いか、そんなところだろうと予想を立て、正人は軽い調子で尋ねながら、トビーと一緒に廊下を歩きだした。
「うん、あのさ、お前、来週も講習の予定はいってたんだっけ?」
「来週? それだったら火曜と水曜に……」
「それさ、抜けらんねえかな?」
「……へ?」
いつもだったら、来週の講習に出るんだったら後でノートの貸し出しを頼む、という会話の流れになるはずが、抜けてもとはどういうことだ。
正人は奇妙な表情で思わず立ち止まってマジマジとトビーの顔を覗き込んだ。
「そりゃ、別に余裕あるから1回2回抜けてもOKだけど……っていうか、来週のどの講習?」
「全部」
「……はあ?」
会話の流れが掴めない。
頭上に?マークを飛ばしながら、正人は本気で首をかしげた。
「何、どういうこと? 来週、オレに何をさせようってんだ」
「うん。実は……今度オレ、旅行に行こうって計画たててるんだけどさ」
「……誰と」
「クレアと」
クレアとはトビーの彼女だ。気さくな気立ての良い子で、正人も親しくさせてもらっている。
「……で?」
「ツアーとかじゃなく、格安の航空券だけとって、現地ではフリーに行動しようって言っててさ、んで、通訳がてら従兄弟の兄ちゃんにつきそいを頼んでたんだけど、それがドタキャンされちまって」
「……はあ……」
だからってオレに何を。
「頼むっっっ。オレを助けると思って、一緒に日本へ行ってくれ!」
「に……?」
「そう、日本!」
「……それって……」
「今回の旅行先、日本なんだよ」
「…………」
ようやく自分に白羽の矢が当たった理由が分かり、正人は思わず天を仰いだ。
「従兄弟の兄ちゃんがかなり日本語堪能だったから、全然心配してなかったんだけど、急に駄目ってことになっちまって、ホント困ってんだ。さすがにオレ達だけで行ったら、言葉通じなくて旅行どころじゃなくなっちまう。もちろん旅費はこっちが持つよ。お前もたまには故郷に帰るってのもいいんじゃないか?」
まったく。調子のいいことを。
だいたい日本の何処へ行くつもりなんだ。山口に行ってくれなきゃ帰郷にも何もならないっつーの。
などと心の中で悪態をつきながら、正人は仕方ないなあというふうにポリポリと頭を掻いた。
「で、日本の何処? オレだって日本全国津々浦々、全部知ってるわけじゃないぞ。それにいつ出発なんだよ」
「出発は来週、7月5日から8日までの4日間。行く場所は京都と奈良と……」
ほらみろ。山口なんかかすりもしない。
「それから、横浜」
「横浜?」
正人は手に持っていた鞄をギュッと握りしめた。
「横浜……」
横浜ということは、少し足を伸ばせば小田原。小田原とはほんの目と鼻の先だ。
正人の表情の変化に気付き、これは脈有りと踏んだのか、トビーは身を乗り出すようにして、ガシッと正人の両肩を掴んだ。
「そう、横浜! 最後の7日8日はそこでゆっくりしようと思ってさ。中華街とか行ってみたいし。お前もどっか行きたい場所があるなら計画に入れてもいいぜ。もちろん単独行動もOK。とりあえず場所まで連れてってくれれば、オレ達もなんとか出来るだろうし」
機関銃のように言葉を並べ立て、トビーは最後に最高の笑顔を正人に向けた。
「とまあ、こういう計画なんだけど、もちろん乗るよな」
「えっ……あの……」
「んじゃ、そういうことでよろしく。マサトもたまには帰りたいだろ。横浜」
「かえ……?」
「詳しい日程は今夜メールで送るから。じゃ、オレ、クレアに知らせてくるな」
言うが早いかもうくるりと背を向けて走り出すトビーに正人は慌てて声をかける。
「おいっ! オレ、まだ行くって……」
正人の声など聞こえないかのように、トビーはそのまま廊下の角を曲がって消えていった。
「行くって……言ってないのに……」
正人の声が尻つぼみ消えた。
日本へ行く。日本へ帰る。帰る。横浜に。
いや、違う。自分は横浜になど行ったことはない。だから、帰るという言葉は不適切だ。
なのに。
「…………」
それなのに。
帰れる。横浜、いや、小田原に。
そう思ったのは。何故だろう。
帰りたいと思っているこの感情は何だろう。
「逢いたい……」
言葉が口をついて出た。
もう、止まらない。もう誰にもブレーキをかけることは出来ない。
口にだしてしまったら、もう止められない。想いが溢れ出す。
ゆっくりと息を吸い込み、正人はもう一度ギュッと鞄を握りしめた。

 

――――――「なんかえらくご機嫌だな、伸」
朝食の手伝いをしながら、当麻がやけに楽しそうに鼻歌を歌いながら支度をしている伸に話しかけた。
「何か良いことでもあったのか?」
「別にそういうんじゃないけどね。なんか寝覚めがとてもよかったんだ。今日は。良い夢を見たのかもしれない」
ふふっと笑いながら伸は軽やかに包丁を使い、今日のサラダにするためのトマトを切っている。
「よく覚えてないんだけど、倖せな夢を見たんだ」
「覚えてなくて倖せな夢だって分かるのか?」
「分かるよ。だって目が覚めた瞬間、とっても倖せな気分だったんだから」
「ふーん」
切り終えたトマトをそれぞれの器に移しながら当麻はちらりと伸を見た。
「ほら、よく目が覚めたとたん忘れちゃう夢って多いんだけど、哀しい夢を見たときって心が重くて理由なんて解らないんだけど泣きそうになったりするじゃない。あれの反対。なんだかポカポカした日溜まりの中でうーんって伸びをして太陽をいっぱい浴びて目覚めたような気分。自然と楽しくなっていくような、そんな心の高揚があったんだ。良いことがある前兆かな?」
伸の気分が高揚しているのは、良いことがある前兆なのか、はたまた先日良いことがあったからなのだろうか。
伸のもとに届いたあの男からのメールを思いだし、当麻は苦笑した。
本当に、いつまでたっても、どれだけ時間が過ぎても、敵わない相手には永遠に敵わない。
くしゃりと顔を歪めて、それでも当麻は伸に向かって笑顔を見せた。
「予知夢みたいだな。伸。恐らく本当に何か良いことがあるんだろう」
当麻がそう言うと、伸は意外そうに目を丸くした。
「何だ? 妙な顔して」
「いや、珍しいなと思ってさ」
「珍しい? 何が?」
伸はうーんと少し視線を中空に彷徨わせてから、もう一度当麻を見た。
「何ていうか、今までいろんな事があったわりに、結構当麻って現実主義者でしょ」
「そうか?」
そうだったかなあと、当麻は首を傾げる。
「うん。あんまり、予感とか予想のみで、物事を断定的に言わないじゃない。まあ、そこが軍師たる所以だったのかも知れないんだけど。だから……」
確かに、普段、予知夢云々の話題を当麻が振ったことはないかも知れない。
占いすらもあまり信じないほうだ。だがまあ、あれは統計学的なものもあるから、そういった意味では信じているが。ということを言ったら、秀が渋い顔をしたのはつい先日のことだったような。
「確かに、これはデータを使って導き出した結論とは言えないけどな。でも、きっと、良いことがあるんだよ」
そう。良いことがある。きっと。
予感なのか、確信なのか。
ただ。風の向きが変わった気がする。だから。
だから。
「そうだね。だったらいいけどね」
幸せそうに伸が笑った。
嬉しくて、そして、少しだけ胸が痛くなる。
その時、オーブントースターからチンっというパンの焼きあがった合図の音が聞こえた。
「おっと、焼けた焼けた」
慌ててパンを取りだし、伸はそのままパタパタと残りの朝食の準備に走り回りだした。
「ほら、当麻もボーっとしてないで、遼達呼んできてよ」
「了解」
ちらりと当麻の後ろ姿を横目で見たあと、伸は作り終えたサラダをテーブルに並べだした。

 

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