天の河越えて(11)

庭でひとしきり騒いだ後、そろそろ就寝時間だと伸と一緒に部屋に引き上げた正人は、結局シーツを替えないままになっていた秀のベッドの上に腰掛けた。
「結局、押し掛けた格好になっちまったな」
「まあね。向こうの友達に不都合なければ、こっちはいつでも大歓迎だったから、別に問題ないよ」
「そうなんだろうけど……つ−か、秀が目の前に電話持ってきて、さっさとホテルの部屋のキャンセル電話しろって迫ってきたときは驚いた」
「あれも一種の愛情表現。秀も君が来るの楽しみにしてたからね」
伸はそう言いながら自分のベッドに腰掛けると、トントンと自分の隣の位置を叩き、こっちに来るようにと正人を促した。正人は了解と軽く頷いて、伸の隣に位置を移す。
やはりここが子供時代からの定位置だよね、と、伸が笑った。
お互いの家に行き、お互いの部屋に泊まり、時にはこうやって隣に座って一晩中話をしたこともあった。時には一緒の布団にくるまって朝まで眠ったこともあった。
そうやって自分達はずっと過ごしてきたのだ。
「伸……」
「何……?」
組んだ手の上に顎を乗せて、正人はぽつりとつぶやいた。
「オレさ、すげえ迷ってた。お前にも、羽柴にも、遼にも征にも秀にも、逢っていいんだろうかって」
「……うん……」
「ずっとずっと迷って、怖くて。でもさ、みんなオレにおかえりって言ってくれたんだ。なんかもう、どうしていいか分からなくってさ」
「……うん……」
「本当、どうしていいか、分からなくって……」
「うん……」
小さく頷いて、伸はコトンと正人の肩に頭を乗せた。
「……みんな君に会いたがってた。ホント、みんながね。烈火にも正人にも逢いたがってた」
「……お前は?」
そっと伸の肩を押しやり、自分の身体から離すと、正人はじっと伸の顔を正面から見つめた。ほんの一瞬その瞳に不安がよぎる。
正人の顔を見つめ返し、伸がふわりと笑った。
「逢いたかったよ。正人」
「……伸」
「僕は、君に、逢いたかったよ」
「……ああ」
正人は照れ隠しのようにくしゃりと髪を掻き揚げた。
変わらない笑顔。離れていた年月があるなんて信じられないくらい、いつも見慣れていた同じ笑顔。
「お前、此処でめちゃくちゃ倖せなんだなあ……」
しみじみと正人が言った。
「何だよ、突然」
伸が可笑しそうに肩をすくめて笑い出す。
「だってさ、此処は空気が優しい」
「空気が?」
「ああ。この家っていうか、この付近、小田原全体なのかな? すんげえ空気が優しい。結界でも張ってるみたいだ」
「別にそういうわけじゃないんだけどね……」
伸の否定の言葉に正人がふっと目元をほころばせる。そういうつもりが無いのなら、これはきっと無意識の領域。
お互いを想う気持ちが作り出した、想いの結界なのだろうか。
優しい空気の中で湧き起こる倖せな気持ち。倖せな笑顔。
「あっ! 忘れてた」
柔らかな空間を裂くように突然伸が立ち上がった。
「何? どうした?」
慌てて正人もベッドの上で居住まいを正す。
「明日の朝食の仕込みしておくの忘れてた。ちょっと待ってて。すぐやってくる」
「…………」
一瞬の沈黙の後、正人が弾けるように笑い出した。
「やっぱ、お前、お母さんみてえ」
伸が、心外だと言わんばかりの表情をして、出て行きかけた戸口から再びベッドのそばへと戻ってくる。
「何だ、その笑いは」
「だってさー」
正人はまだ笑い続けながら滲んできた涙をぬぐった。
「これじゃ、あいつらの言ってたこともまんざら間違いじゃないなあ」
「あいつら?」
伸が不満そうに唇を歪める。
「いやね、こっちには向こうの学校の悪友と一緒に来たんだけどさ、そいつら、最初お前のこと、女の子だと思ってたんだよ」
「は?」
「だからさ……」
そう言って、正人は奈良の鹿公園で起こった一連の出来事を伸に話しだした。
とっさに指差した相手が女の子だった事から、彼女に逢いに行くんだろうとからかわれたこと。大事な人という言葉に反論出来なかったこと。
伸は正人の話をひととおり聞いて、可笑しそうに笑った。
「へえ〜、あっちで彼女作ってないんだ。正人は」
「お前、反応するとこ、そこかよ」
「駄目?」
「…………駄目だろ」
ムスッとした顔で正人が拗ねてみせた。
「オレ、向こうに彼女を作る気はないぜ」
「どうして?」
「護りたい奴が他にいるのに、そんな浮気はできないよ。オレは真面目人間なんだ」
「…………」
思わず伸が目を瞬いた。
「なんて奴の前で言ったら殴られるかな? オレ」
「……奴って?」
「もちろん羽柴」
分かっていた答えだとはいえ、伸は大げさに頭を抱えた。
「言っておくけど、別に僕と当麻はそういった関係じゃない」
「嘘つけ」
にやりと正人が笑った。伸が慌てて首を振る。
「正人、君、何か誤解してないか……? それとも当麻がまた何か言った……?」
「言わなくても分かるだろう。お前こそ何言ってんだ。オレが何年お前と一緒にいたか分かってんのか? それくらい気付かないと思われてたんなら心外だなあ」
何もかも見透かすような目をして、正人は伸の顔を覗き込んだ。
僅かに頬を染めた伸の表情。ああ、これは照れている証拠じゃないか。相変わらず嘘のつけない奴だ。
正人はくすりと笑った。
案外ポーカーフェイスだと思われている伸だったが、よくみるとその表情の変化はとても素直なのだと気付く。
見慣れた翡翠の瞳は、決して嘘を許しはしない。いつだって、真っ直ぐに真実を伝えてくる。
そう、この瞳だ。
これが、いつも、あれ程見たかった本物の翡翠の瞳だ。
自然と笑みがこぼれて。そして、ちょっと悔しくなる。
「別に嫌味じゃなく、オレはあいつに感謝してる。あいつは、お前を、自分のことを嫌ってるお前を、きっとすんげえ好きだって言ってくれてるんだろ」
「…………正人」
「自分のこと、そんな嫌わなくていいんだって、言ってくれるんだろ」
「…………」
「ちょっと悔しいけど、やっぱ、それって感謝するべきことなんだなあ、オレにとっては」
うーんと伸びをして、正人はベッドの上に仰向けに寝転がった。そして、思わず正人の顔を見ようと、覗き込んだ伸の腕を取ってそっと引き寄せる。
「正人……?」
「……ごめんな。本当は、オレが言い続けたかったんだけどさ。出来なくて……」
「…………」
今でも鮮明に思い出せる。正人が言った数々の言葉。
中でも一番印象に残っているのは、中学3年の時のバレンタインの日。夕陽の当たる教室でのことだ。
『何怯えてんだよ。大丈夫だって。オレは幼稚園の頃からお前のこと知ってるけど、ちゃんとお前のこと大好きだよ』
あの言葉に自分はどれだけ救われてきたのか。
あの頃は、一緒にいることが当たり前だと思っていたのに。
ずっとずっと、そう思ってきたのに。
「正人、いつか、戻っておいでよ。こっちに」
伸がそう言うと、正人は少し笑って首を振った。
「だったら、強くならなきゃ。オレ」
「強く?」
「ああ。もっともっと強くならなきゃ」
「…………」
強くなりたい。それは烈火のいつもの口癖だった。
あれ程の強さを持ちながら、それでもなお満足しない。烈火はいったい何処まで強くなりたいのだろう。
幼い頃の水凪はそう思っていた。
そして、それは、そのまま今の伸の心の中にある。
「正人、別に強くならなくていいよ」
伸がそっと言った。
「このままでいい。これ以上強くならなくていい。もし正人にとって弱い部分が残っているのなら、僕がそれを補ってあげるから。欠けた部分は、きっと僕の中にある。だから、それは、必ず僕が埋めてみせる……」
「…………」
同じ事を考えている。
自分がこの小田原へ来る電車の中で思っていたことと同じ事を、この幼馴染みは考えてくれているのだ。
欠けた一部は、お互いの中にある。
その考え方がとても嬉しい。
「なあ、伸」
ぽつりと正人が言った。
「ん?」
「1年て365日あるけどさ、そのうち364日は忘れててくれて構わないから、1日だけ、この七夕の日だけは、オレのこと考えてくれないかな?」
「それは無理だね」
正人の顔を見下ろしながら、やけにきっぱりと伸は言い切った。
「え、無理?」
「そりゃ無理だよ。1日だけなんて。そんなの少なすぎる。全然足りない」
「…………」
「イギリスの水は日本と違うからお腹壊してないかなあとか。また君のことだから勢いに任せて無茶やってるんじゃないだろうかとか。結構考えてるんだよ。僕は」
「…………」
「ちゃんと勉強はかどってるのか、ホームスティ先に迷惑かけてないだろうか、学校の友人関係は大丈夫だろうか、部活は何をやってるのか、今でもバスケ続けてるのか、これからも日本に帰って来る予定はないのか……」
放っておくと延々と続けそうな伸を見上げ、正人は泣きそうな顔をして笑った。
「ずっと、考えてるんだから……僕は……」
「やっぱお前って最高」
そう言って、正人は掴んでいた伸の腕を引き寄せ、そのままギュッと伸の身体を抱きしめた。
昔と同じ、懐かしい、懐かしい、海の匂いがした。

 

――――――「んでは、お世話になりました」
「また来いよー!」
大きく手を振る皆に別れを告げ、正人は翌朝、柳生邸を後にした。
初めて来たのに懐かしい場所。
もしかしたら、いつか自分は此処へ還ってくるのかも知れない。
欠けたピースを埋めるために、自分達の完成系を創るために。
もう一度、あの子が倖せになるのを見届けるために。
いつの日か。そう遠くない未来に。

FIN.     

2002.8 脱稿 ・ 2006.06・10 改訂   

 

前へ  後記へ