暁の光 (2)
翌日、今度の合宿に参加する24名の選手と監督、コーチ、スタッフの名簿が三杉のもとに届けられた。
三杉は、さっそく各選手達のデータをそろえ、たった2週間程しかないという短い合宿期間中に出来る最大限の事をしようと準備を始めた。
「へえ、翼は不参加なんですか」
「うん、怪我が治るまで参加は出来ない。今回の遠征自体への参加には間に合って欲しいとみんな思ってるだろうけど、身体が資本だから無理はさせられないしね」
「何だか、あなたがいうと更に説得力が増しますね」
「一ノ瀬」
軽く睨みつけられ、一ノ瀬は肩をすくめて苦笑いした。
昨日の状態が嘘のように今日の三杉はコーチを務めることに何の躊躇も迷いも感じられない。
一晩病院でゆっくりすることで、心の整理がついたためだろうか。
晴れやかな三杉の顔を見るのは嬉しいことのはずなのに、ほんの少し心が痛い。
それはきっと、昨日の三杉の顔が忘れられないからだろう。
一瞬触れかけた三杉の心の深淵が、その深い深い心の底が忘れられないからだろう。
「……何? 一ノ瀬」
気づいているのかいないのか。三杉はわざと何でもないふうを装って一ノ瀬に笑いかける。
その笑顔に心がズキンと痛くなる。
「いえ、気をつけて行って来てくださいね」
微かに笑って一ノ瀬は三杉にそう言った。
「合宿ももちろんだけど、海外に行ったら水も食べ物も変わるんですから、体調にはくれぐれも気をつけて。何かあってもさすがに空を飛んであなたの元に行ける羽根は持ってないんですからオレも」
「そうだね。気をつける」
冗談めかして言ったはずの一ノ瀬の言葉に、三杉は真剣な口調で答えた。
それは、三杉の一ノ瀬に対するせめてもの誠意なのだろうか。
「そうだよね。出発しちゃったら、もう君を探しにあの公園に行くことは出来ないんだから」
「…………!」
とたんに三杉の表情が昨日のそれと重なった。
一ノ瀬は一瞬言葉に詰まって、そう言った三杉の顔をじっと見つめた。
サッカー選手というより、芸術方面に進んだほうが良いのではないかと思うほどの線の細い整った顔立ち。日に透けて淡く光る栗色の髪。日に焼けることのない肌。
でも。それでも。
彼が望むのは、いつだってただひとつのもの。
たったひとつのかけがえのないもの。
「いつでしたっけ。青葉マネージャーが言ったこと覚えてますか?」
「え?」
じっと三杉の顔を見据えたまま一ノ瀬は言葉を続けた。
「ずっと、ずっと、心から願っていれば、叶うって」
「一ノ瀬」
「貴方だけじゃない。オレも、青葉さんも、真田や本間達、武蔵中の連中もみんな願ってます。いつか……」
「いつか……?」
「貴方が一人の戦士としてグランドに立つことを。ずっとずっと願ってますから」
「……一ノ瀬」
「本当はずっとついて行って貴方を見ていたいんだけど、如何せんオレにはそこまで実力がないもんで。それが悔しいんですけど。でも、オレはずっと願ってますから。どんな瞬間でも、願ってますから。オレのその気持ちも一緒に向こうまで持っていってくれますか?」
「…………」
ゆっくりと三杉は頷いた。
こんな身体で。こんな状態で。それでもずっと諦めずにここまでこれたのは、きっと自分だけの力ではない。
こうやって周りで支えてくれる暖かい手が、自分をここまで引き上げてくれたのだ。
精一杯の感謝の意を込めて、三杉はもう一度力強く一ノ瀬に向かって頷きかけた。
「どんな時も、僕は戦士でありたい」
「…………」
「どんな瞬間でもね」
強い光を湛えた眼差しで一ノ瀬を見る三杉は、はっとするほど戦士の瞳をしていた。
真っ直ぐに前を見つめ続ける戦士の瞳をしていた。
――――――慌しく準備を終え、三杉が合宿の地、静岡へと向かって2週間。
新聞やニュースで報道される選手達の表情は明るく、なかなか調子も良さそうである。
惜しむらくは翼の不在であると皆が口をそろえて言っているのを聞くが、翼の怪我の回復具合も順調とのことなので、もしかするとフランス国際ジュニアユース大会への参加は可能かもしれないらしい。
「やっぱり大空翼って奴はすごいんだな」
新聞を手に本間が感心した声をあげた。
「もともとの身体がきちんと出来てるから、あんだけすごい試合して身体に負担かけて無茶してもこんな短期間で治っちまうんだ」
「そうだな」
曖昧に頷き返しながら一ノ瀬も本間の手にある新聞を除き込んだ。
白黒の小さな写真の中には、練習を見に立ち寄った翼の姿が写っている。
「あ、これ三杉さんだ」
「え? どこ?」
翼の斜め後ろに立っている人物。小さすぎて顔もよくわからなかったが、この立ち姿は間違い無く三杉淳である。
そう確信して、一ノ瀬は写真の中の三杉を指差した。
「元気そうで良かった」
「元気そうって・・・こんな小さな写真で何がわかるんだよ。一ノ瀬」
「わかるさ。どんな小さくたって。どんなに遠くからだってあの人の表情くらい見分けられる」
「…………」
なんとも言えない表情で一ノ瀬の顔を覗き込み、本間はこれ見よがしに大きくため息をついた。
「お前なあ。それはただの思い込み」
「かな?」
「当たり前だろ」
「うん。でも、それでもいい。だって信じていたいじゃないか。あの人が元気だってこと」
「……」
「信じていたいじゃないか」
「……お前さ、冗談じゃなく本当は静岡まで、出来ればヨーロッパまでついて行きたかったんじゃないか?」
考えても仕方ないことだと解っていながら、それでも望まずにはいられない。
本当に。ずっとすぐそばで見ていられたら。
どんな形であれ、あの人が生きていることを実感しながら、ずっとあの人の生き様を見続けていられたら。
「本間。オレだって色々考えてるんだよ」
ふいに一ノ瀬はそう言ってにっこりと本間に向かって笑いかけた。
「オレに出来る精一杯と、オレが目指すべき理想の場所と、オレの願い」
「へっ?」
意味がわからず本間は眉間に皺を寄せる。
「オレさ、医大付属の高校へ進もうと思ってるんだ」
「……!?」
驚きに目を丸くして本間は思わず一ノ瀬に掴みかかった。
「い・・・医者!?」
「目指せスポーツトレーナー兼チームドクター!」
「……おいおい」
本当に。どんな形でもいい。
そばにいて見続けていたい。
大切な、大切な人の命を。
真正面から自分の命と向き合いながらも、それでも必死で生きている大切な人の。
「本気……なんだ」
「本気も本気。マジ本気」
はっきりと言い切った一ノ瀬を見て、本間は小さく肩をすくめた。
「そこまで思い込めるってのは立派だなあ。敬服するよ」
本当に本気なのだ。一ノ瀬は。
本当に本気であるのだと、一ノ瀬の真っ直ぐな目は言っているのだ。
少し照れたように笑って一ノ瀬は本間に向き直った。
「まあ、三杉さんのことだけじゃなく、オレって何かと病院に縁があるから、実際の所、小学校の頃から考えてはいたんだけどね」
「明日香ちゃんのことか?」
「まあね」
笑顔の中、ほんの僅かに見え隠れする苦々しさ。
病弱な妹の看病をし続けている兄の苦悩。何もしてやれないもどかしさ。
そんなものをずっと抱えて生きてきたのだ。この男は。
一ノ瀬、頑張れ。
本間は心の中で、そっと、そうつぶやいた。
――――――リン……と静寂を破る電話のベルが鳴り響いたのは、すっかり真夜中も過ぎた頃。
どちらかというと明け方に近い時間帯。
一ノ瀬は寝ぼけ眼のまま、ゆっくりと受話器を取り上げた。
「もしもし…………」
「あ、一ノ瀬・・・かい?」
「み……三杉さん!?」
受話器から聞こえてきたのは、なんと今ヨーロッパにいるはずの三杉の声だった。
「ど……どうしたんですか、こんな時間に!?」
「え?……こんな時間て……?」
一瞬の沈黙の後、突然、三杉が焦ったように声をはりあげた。
「ご……ごめんっ!時差のことすっかり忘れてた。そっちって今もしかして真夜中!?」
「もしかしなくても午前4時です。」
「うわぁ……ごめん、本当にごめんっ!」
らしくないミスにすっかり本人も慌てふためいているのか、三杉はしばらくの間ひたすら遠いヨーロッパの空の下から一ノ瀬に向かって謝り続けた。
なんだか電話口に向かって頭を下げている三杉の姿が見えるようで、一ノ瀬はついに吹き出して笑い声をあげる。
「もう、いいですよ。目は覚めちゃったんだし。どうしたんです?わざわざ国際電話なんて」
「あ、うん」
数週間前合宿に行ってから三杉は一度も電話などよこしてこなかったというのに、いったいどうしたのだろう。
受話器から聞こえる声が思いの他明るいので心配はいらないとは思うのだが、それでも少し声のトーンを落とし、真剣な口調で一ノ瀬は聞いた。
「何か、あったんですか?」
「うん。実はね。どうしても君に一番に知らせたくて、何も考えないままダイヤルしてた」
「オレに知らせたくて……?」
何をだろう。そんなに焦るほどの何があったのだろう。
「明日からこっちでフランス国際ジュニアユース大会が開催されるのは知ってるよね」
「ええ」
すっと一ノ瀬の顔に緊張感が走る。
「今日、三上監督が言ってくれたんだ。僕もその大会に選手として登録してあるって」
「……!?」
言葉をなくして一ノ瀬は受話器を握り締めた。
今、何と言った。三杉は。
「選手……登録?」
「うん」
「コーチスタッフとしてじゃなく、選手として?」
「うん」
「じゃあ……それじゃあ」
「うん」
「試合に……?」
「そう」
「…………」
「試合に出られるんだ。選手として」
「…………」
受話器が壊れるのではないかと思うほど、一ノ瀬はきつくきつく両手で受話器を握り締めた。
自然と身体が震えてくるのがわかる。
心の奥底から何か熱いものがこみ上げて来るのがわかる。
「三杉……さん……」
試合に。
全日本のユニフォームを着て。
選手として試合に出る。
あれほどに願いつづけた夢が叶う。
「うわぁ、なんか、めちゃくちゃ悔しい」
くしゃりと髪を掻きまわし、一ノ瀬は受話器を握り締めたまま廊下に座り込んだ。
「今すぐ貴方の所まで飛んでいきたい。今の瞬間の貴方の顔が見たい。なんでヨーロッパってそんな遠いんですか」
「一ノ瀬……」
「今、どんな顔してるんですか?見たくて見たくて仕方ない。くそう、せめてこれがテレビ電話だったらなあ……」
「大丈夫」
クスリと笑って三杉はささやくように言った。
「きっと今の僕は君が想像してるとおりの顔をしてるよ。間違いない」
「……三杉さん」
「そう思ったから、君に一番最初に知らせたかったんだ」
「一番最初……」
はっとなって一ノ瀬は再び立ちあがった。
「そうだ、青葉さんには!? 彼女も気にしてるでしょうに。知らせないんですか?」
「あと数時間してちゃんとそっちが朝になった頃、電話するよ」
クスクスと笑いながら三杉はそう答えた。
「あ……そっか。そうですよね」
言いながら一ノ瀬はトンっと壁にもたれかかった。
通話口から聞こえる三杉の少し高いトーンの笑い声が心地良い。
甘くて優しくて。森の中で、木々のざわめく音や小川の流れる音を聞いているように、柔らかく耳に響く声。
嬉しい時、辛い時、楽しい時、苦しい時、ふと思い出して欲しい。
そう思ってた。
この人の一番大きな大切な部分に居座ることはできなくても、ふとした時、思い出してくれればいいと思っていた。
そう、こんな瞬間。
三杉のまわした電話のダイヤルが他の誰でもない自分の家の番号だったことが嬉しい。
幸せで幸せで、気が遠くなるくらいに嬉しい。
こんなにも嬉しい。
「三杉さん」
「…………」
「おめでとうございます」
「…………」
「本当に、おめでとうございます」
「……有り難う。」
「オレ、ずっとずっと見てますから。戦士としての貴方を」
「うん」
「ずっと」
ずっと。きっとこの命尽きるまで永遠に。
固い決意を胸に、一ノ瀬は再び三杉自身の身体を抱きしめるかのようにギュッと受話器を握り締めた。FIN.
2003.7 脱稿 ・ 2003.08.30 改訂