暁の光 (1)
キィっと公園のブランコが軋んだ音をたてる。
一ノ瀬はようやく涼しくなってきた夕方の風を頬に受けながら、木々の間に見え隠れするいつもの病院の窓を見上げた。
一ノ瀬が見上げるのは3階の右から4つめの窓。一昨日から妹の明日香が入院している病室だ。
検査入院ということなので、緊急を要する入院ではなかったのだが、それでもついていてやりたくて、結局こうやって病院へ足を運んでしまうのはいつもの事。
周りに兄バカだと言われるのも無理ないなあ等と苦笑しながら、一ノ瀬は小さくつぶやいた。
「…………やっぱ、行けばよかったかなあ。今日の決勝」
今日は全国中学生サッカー大会の決勝戦。南葛対東邦戦が行われた日であった。
いちおう昼間テレビでやっていた中継を観てはいたのだが、生の迫力にはどうしても劣るし、グランド全体を観たい場合、どうしてもカメラアングルが自分の思っている方向と違っていると気に障る。
本当は、一ノ瀬も三杉や弥生と一緒にスタジアムまで観戦に行く予定だったのだが、明日香の入院の為、土壇場でキャンセルしたのだ。
「どっちが勝っても構わないと思ってたけど、やっぱ考えてみると東邦に勝って欲しかったなあ。なんたって、オレ達を倒して全国へ行ったんだから」
そう言いながらも、ふっと一ノ瀬は先程病室のテレビで一緒に試合を見ていた明日香の姿を思いだし、唇に笑みを浮かべた。
「まあ、でも明日香的には良かったんだよな。同時優勝で。井沢達も活躍してたんだし」
小学校の頃、兄の試合を観戦した時に見かけた井沢の姿は幼い明日香の心にかなり強烈に焼きついたらしい。
その後、見舞いに来てくれて偶然会った所為もあるだろうが、井沢は未だに明日香にとって憧れの選手であったのだ。
兄としては少々心に引っかかるものもあるが、これについてはどうしようもない。
サッカー選手としても、自分より少し前を歩いている井沢は確かに格好良く見えた。
「せめて全国大会行けてたらなあ。また対戦してみたいよ。あいつらと」
望んでも詮無いこと。それでも願わずにいられない。
もしも。
もしも自分達にもう少し力があれば。
同じ地区内に日向小次郎という男がいなければ。
もしも。
それは叶わない願い。
そして、そのことを自分などよりもっと悔しがっている人がいるのだ。確実に一人。
誰よりも才能を持ち、誰よりも早く頂点を極めて当然だと思っていた、唯一人の人。
「…………?」
かさりと動いた木の葉の陰にその人物の姿を見かけ、一ノ瀬は驚いて立ちあがった。
噂をすればなんとやら、ではないが、まさか彼が此処に現れるなど思ってもみなかったのに。
「……三杉……さん……?」
「…………一ノ瀬」
名前を呼ばれて三杉は微かに微笑むと、真っ直ぐに一ノ瀬の元に歩み寄ってきた。
「ど……どうしたんですか?」
「やっぱり……ここにいると思ったんだ」
「……え?」
「時間があればよくここに来てるって聞いていたから。だから……」
「三杉さん……オレを探してたんですか? 何故?」
「…………」
一ノ瀬の問いに何も答えず、三杉はトンっとおもむろにその頭を一ノ瀬の胸にもたせかけた。
「…………!?」
「今日ね。決勝戦のスタジアムに行ってきた」
「…………」
そんなことは知ってる。自分も行く予定だったのだ。
「そこでね。片桐さんに会った」
「……えっ?」
片桐。日本サッカー協会のお偉方だ。自分達がまだ小学生だった頃から、大空翼はじめ、この自分達の世代の少年達に何かと注目してくれていた人物。
確か、今度のジュニアユースの選抜にも絡んでいるのだと噂で聞いていた。
だが、どちらにしてもジュニアユース選抜は全国大会出場者から選抜されるはずなので、自分達には関係ない事のはず。それが。
「片桐さんが、何か言ったんですか?」
「…………」
額をこすりつけるように頭を振り、三杉は誰にもわからないくらい小さなため息をついた。
「三杉さん?」
「彼は言ったよ。僕にジュニアユースに参加して欲しいって」
「……えっ?」
「コーチとしてね」
「…………!?」
一瞬喜びかけた一ノ瀬の表情が凍りついた。
「こ……コーチ?」
「うん」
三杉の細い肩が微かに震えていた。
「選手ではなく……コーチとして召集がかかったんですか?」
「…………」
三杉は一ノ瀬の胸にもたれたまま頷いた。
「そ……それで?」
「行くって言った。決勝戦を見終わった後。僕はコーチとしてジュニアユースに参加すると、片桐さんに答えてきた」
「…………」
ジュニアユースに参加する。それはそのままこの世代の日本の代表となることだ。
どれほど選ばれたいと思っていたことだろう。
どれほど世界の強豪達と戦いたいと思っていたことだろう。
どれほど。
でも、それは決してベンチで戦う皆に指示を飛ばしての参戦ではない。
皆が戦う姿をベンチで見る為ではない。
決してそれを望んでいたわけではないはずなのに。
「ねえ……」
微かな声で三杉が言った。
「僕はどうすればいいのかな……?」
「…………」
「よく……わからないんだ」
「…………」
「僕はわからないんだ。自分の気持ちが。僕は嬉しいんだろうか。哀しいんだろうか」
「……三杉さん……」
絞り出すような声で三杉の名を呼び、一ノ瀬はその場に立ち尽くしていた。
胸にもたれかかっている三杉の身体を腕で支えることも、柔らかそうな栗色の髪に触れることも、何も出来ないまま、一ノ瀬はただ、立ち尽くしていた。
「三杉さん……」
「どうしてだろう。君に会いたくなった。誰かに聞いて欲しくて。僕はどう感じればいいのか、どう喜べばいいのかわからなくて、誰かに聞いて欲しくて。そうしたら、君に会いたくなった」
「……三杉さん……」
「君に、会いたくなった」
何故。どうして自分は今日、この人と一緒にスタジアムに行かなかったのだろう。
どうしてその瞬間にその場にいることが出来なかったのだろう。
どうして。
自分は大馬鹿者だ。どうしようもない間抜けな奴だ。
必要な時にそばにいることも出来なくて。
それで、この人を支えて生きて行けるとでも思っていたのか。
自分にそんな力があるとでも思っていたのか。なんて傲慢な奴だ。
一ノ瀬はギュッと唇をかみ締めた。
本当に情けなくなる。
「…………!?」
ふいに一ノ瀬の胸にもたれていた三杉がそのまま崩れ落ちるように地面に座り込んだ。
「三杉さん!?」
慌てて一緒にしゃがみ込み、一ノ瀬はようやく三杉の身体を支えるため、両腕を伸ばす。
「三杉さん! 大丈夫ですか?」
三杉は左胸を押さえて苦しげな息を洩らしていた。軽い発作のようだ。
これは今日1日炎天下にいた所為だろうか。精神的なものが身体の異変を誘発したのだろうか。
「すいません。ちょっと我慢しててください」
そう言いながら一ノ瀬は三杉の腕を背中に回して抱え上げると、一目散に病院へと駆け戻った。
同い年の少年にしては軽すぎる三杉の体重がなんだかとても哀しく思えた。
―――――― 一ノ瀬から連絡を受けて弥生が慌てて病院に駆けつけた時には、すでに面会時間は終わっており、弥生は人気のなくなった病院のロビーに残っていた一ノ瀬の姿を見つけ、足早に駆け寄った。
「一ノ瀬君」
「あ、青葉さん」
「どうなの? 淳の具合は」
「うん。大丈夫。発作自体は軽いものだったし、もう落ち着いてる」
「本当?」
「うん。先生も心配いらないって言ってくれたし、本人も、もう大丈夫だから家に戻るって言ってたんだけど、いちおう様子見を兼ねてベッドにしばりつけておいた。今日1日炎天下にいて疲れてたのは事実だし」
「そう」
「本当は連絡する事もないかなとも思ったんだけど、やっぱり何かあると嫌だから一応ね」
そう言って一ノ瀬は安心させるように弥生に微笑みかけた。
「何も知らないで心配してるより、どんな些細なことでも知ってたほうがいいだろ。オレもそうだから」
「ごめんなさい。気を遣わせちゃったわね」
「こっちこそ。突然呼び立ててごめんね」
「いいえ」
ふわりと微笑み返し、弥生はロビーの自動販売機で珈琲を二つ購入すると、1つを一ノ瀬に手渡した。
「はい。今回のささやかなお礼。こんなもので何なんだけど」
「ありがたく頂戴します」
多少おどけて珈琲を受け取った一ノ瀬は、ふと真面目な顔になって弥生を見下ろした。
「あのさ」
「何?」
「今日、三杉さんが片桐さんに言われたこと、知ってる?」
「…………?」
一瞬戸惑ったような表情を見せて一ノ瀬を見上げた弥生は、すぐに意味を悟るとコクリと頷いた。
「全日本ジュニアユースのコーチの件でしょ。知ってるわ。私もその場にいたから」
「そっか……」
「ええ、ちょうどあの時、淳のそばには私と松山君がいたの」
「松山? ふらのの?」
「そう。ちょうど一人残って決勝戦を観戦しにきてたから一緒に見てたのよ。試合が終わった直後に、淳は直接片桐さんの所に行って、コーチとして参加したいって言っていたわ」
「……そう」
直接。あの試合を、あの壮絶な試合を見た直後。
どんな気持ちであの人はその言葉を片桐さんに言ったのだろう。
「それで……その時のあの人の様子は?」
「……えっ?」
「どんな感じだった?どんな……」
「…………」
しばらくの間まじまじと一ノ瀬の顔を見上げていた弥生は、手に持った珈琲の缶を握りしめて深くため息をついた。
「やっぱり駄目ね」
「……えっ? 何が?」
弥生は何も答えず、珈琲を持ったままロビーのベンチに腰を降ろして、再び一ノ瀬を見上げた。
「女の子って肝心な時に何も出来ない。あんなに近くにいたのに、淳は私じゃなく貴方になら弱音吐くのね」
「……!」
「どうりで家へ直接帰らずにここに来たわけだわ。淳は貴方を探してたんでしょう」
「あ……青葉さん」
「淳ね。私には何でもないことのように話すのよ。たとえコーチとしてでも参加したいんだって。精一杯コーチの任務を勤め上げたいって」
「…………」
「いやになっちゃう」
「…………」
「本当の気持ち、何も言ってくれてなかったんじゃない」
「そうじゃないよ」
沈みがちな弥生を気遣って、一ノ瀬は慌てて弥生の言葉を遮った。
「男っていうものは好きな女の子の前では見栄をはりたがるんだ。誰だってそう。ちょっとでも格好良くみせたい。強い奴だと思われていたい。三杉さんだってきっとそうだよ」
「…………」
「三杉さんは、青葉さんの前では、格好良い男でいたいと思ってるんだ。好かれてる証拠だよ」
「そう……かしら?」
「そうだよ」
にっこりと笑って一ノ瀬は弥生の隣に腰を降ろすと、こくりと貰った珈琲を飲んだ。
「見てたらわかる。お似合いのカップルだよ。二人は」
「…………」
ちらりと一ノ瀬を見て、弥生はようやく安心したように表情をほころばせた。
小学校の頃からずっと影のように寄り添って、その細やかな心遣いでさりげなく三杉をフォローしていた姿を考えると、三杉が弥生を選んだのは必然であったのだと、今更ながらに思う。
「青葉さんはそこにいるだけで、オレには出来ないたくさんの事をあの人にしてあげることが出来る。オレはどう頑張ってもあなたに敵わない。だから、青葉さんに出来ないほんの僅かなことくらい、オレが代わりになっても罰はあたらないよね」
「……一ノ瀬くん……?」
「オレなんかがどんなに頑張ったって、出来ることは限られてることくらいわかる。でも、ほんの少しでもあの人がオレのことを必要としてくれているのなら。弱さを見せられる相手としてオレを選んでくれるのなら、オレは、その為だけにあの人のそばに寄り添ってあげたいと思う」
「なんだか、まるで恋の告白を聞いてるみたい」
「……なっ!?」
クスクスと笑いながら弥生がそう言ったので、一ノ瀬は真っ赤になってベンチから立ちあがった。
「な……何言ってるんだよっ!?」
「ごめんなさい。からかってるつもりはないんだけど」
そう言いながらも弥生はまだ笑いつづけている。
「まったくもう……」
まだ赤い顔をしながらも、一ノ瀬はさすがに夜いつまでも病院内にいるわけにはいかないからと言って弥生を促して病院の外へと歩き出した。
外はすっかり暗くなっており、頭の上には満天の星空が輝いている。
「でも、冗談じゃなく一ノ瀬君が女の子だったら私負けてたわね」
ぽつりともらした弥生の言葉を聞き、一ノ瀬がくすりと笑った。
「大丈夫。絶対にそんなことはあり得ません」
きっぱりと断言する一ノ瀬の口調が可笑しくて、二人は再び声をそろえて笑い出した。
ふわりと通りすぎた風がやけに心地よかった。