勿忘草
僕が小次郎に初めて会ったのは、夕暮れの堤防だった。
空が真っ赤に燃えるような見事な夕焼けの中、独りうずくまっていた小次郎の背中を、僕はずっと忘れないだろう。その頃、風景画を専門に手がけている父さんについて日本全国をずっと旅していた僕が、埼玉のはずれの小さな街にやって来たのは、小学校5年生の時だった。
そこそこの住宅街と、まだ自然の残った河川敷の堤防。山が近いせいか空気も澄んでいて、父さんは一目で此処が気に入ったのか、早速小さなアパートを借りる為不動産屋に立ち寄った。
いそいそと奥から出てきた不動産屋の主人は、僕と父さんを見たとたん、明らかに見下したような表情になった。決して良い暮らしはしていないだろう事は父さんの身なりや背中にしょった古ぼけたイーゼルの包みを見ると一目瞭然だ。しかもこんな子供まで引き連れて。何を考えているのだろう。
きっとそんなふうに思っていたのだろうか。
じろじろと値踏みするようなぶしつけな視線と好奇心を露わにした顔がどうも気に入らなくて、しばらくはおとなしく事務所の隅で出してもらったお茶をすすっていた僕は、ついにいたたまれなくなり、父さんに「ちょっと出てくる」と言い残し、外へと飛び出した。
別に新しい部屋がどんな所だろうと僕は興味などなかった。
どうせ父さんが探すのは六畳一間の小さなアパートで、トイレは付いていてもお風呂は銭湯通いで、廊下を歩くとギシギシ音がして、立て付けの悪い扉は下を蹴飛ばさないと開かなくて。
そして、ほんの数ヶ月でサヨナラする部屋。
愛着なんかおぼえる暇もない。
僕は小さなため息をついて街の方へと歩きだした。
まだマンションも少なく、木造の平屋の多い小さな住宅街を通り抜けると、古びた小学校が建っている。
門の所には『明和小学校』の文字。
ああ、ここが僕がしばらくお世話になる学校なんだ。心の中で軽く学校に向かって初めましての挨拶をし、僕は門の影から校庭の様子を窺った。もう下校時刻は過ぎている為か児童もまばらにしかいなく、遠くでわあわあと嬌声をあげる声が微かに聞こえてきた。
この中の何人と僕は友達になるのだろう。そして僕が去った後、何人の心の中に僕の存在は残るのだろう。
気付くと僕はまたため息をついていた。
まったく、こんな事ばかり考えているから、人付き合いは上手いがあまり深く人と関わろうとしないところがあるなんて知ったかぶりの教師に言われちゃうんだ。
道ばたの石ころを蹴飛ばし、僕はダッシュで堤防の上まで駆け上がった。
足下で草がザッと鳴る。一気に駆け上がった為、少し荒く息を吐いた僕の目の端に、ひと組の親子連れの姿が映った。
小学校低学年くらいの小さな男の子と恰幅の良いお母さん。何の話をしているのか、手をつないで楽しそうに笑っている。腕に下げているビニール袋から覗いている長ネギは今夜の夕飯の材料だろうか。
「…………」
僕はすっと目をそらし堤防の上を歩きだした。
アパートが決まったら、近くのスーパーを下見に行かなければいけない。夕飯を作ってくれる母さんは僕達親子にはいないのだから。
日が沈みだし、空が段々夕焼けの茜色に染まり始めた。さすがにそろそろ戻らないといけない。そう思いながらも、僕の足は先程の不動産屋と反対の方向に向かっていた。
きっと僕はいじわるなんだ。こんな事をしてわざと父さんを困らせようとしている。いつも。
まったく。性格悪いったらありゃしない。
「…………あれ?」
堤防の上でぐるりと視線を巡らせた僕は、橋の下に見えた一つの影に気付いて足を止めた。
「何やってるんだろう……?」
年の頃は同じか一つ上くらいか。
すり切れたジーパンに黒いTシャツを着た浅黒い肌の少年がじっとその場に座りこみ、地面を見ている。
気付かれないようにそっと回り込み、ちょうどその少年の横顔が見える位置まできて、僕ははっとした。
少年の足下には何かふわふわしたものがあり、少年はじっとそのかたまりを見つめているのだった。
白い小さなかたまり。それは泥に汚れた一匹の猫だった。
「…………?」
僕は一瞬少年が泣いているのかと思った。でも少年の横顔には涙の跡はなく、少年はギュッと唇を噛みしめて、睨みつけるようにその猫を見下ろしていた。
何となく興味をひかれ、もう一歩足を踏み出した僕は、不覚にも小さな声を上げてしまった。
「…………!!」
しまったと思った時はもうすでに手遅れで、浅黒い肌の少年ははっと顔をあげ、きつい眼差しで僕の方へ顔を向けた。
「何だ。お前?」
「あ……あの……その猫……」
ぐったりと目を閉じた猫の腹の辺りが赤黒く変色している。なんだかドロドロした物も見えるがあれは何だろう。
「怪我……してるの?……だったら……」
「さわるな!」
鋭い声で制止をかけ、少年がさっと猫を抱き上げた。
とたんに、だらんと伸びた猫の肢体から赤黒い血が滴り落ちてくる。僕は思わず声を詰まらせた。
「あ……」
「もう、手遅れなんだよ。さっきまではそれでも少しは暖かかったんだけどな」
「し……死んじゃったんだ」
「ああ、たった今」
「…………」
僕はぺたんと地面に座りこんだ。
少年は再び抱き上げていた猫を地面におろし、背中をそっと撫で上げてやっている。
「どんどん身体が冷たくなっていく。苦しかったろうな」
そう言って唇を噛む少年の横顔は、涙など流していないのに、やはり泣いているように見えた。
「君が飼ってた猫?」
「いいや。オレん家は猫を飼える程裕福じゃねえからな。こいつはノラだよ。きっといろんな街を転々としてるんだ。確か一週間前くらいにふらっと現れたんじゃないかな。此処には。魚屋の店先で煮干しをもらってるのを見たことがある。あん時の猫だ」
「野良猫……なんだ」
見ると、確かにその猫は首輪も鈴も付けてはいなかった。
「こいつ、さっき、そこの道路で車に轢かれたんだ」
ぽつりと少年がつぶやいた。
「すげえ急ブレーキの音がしたから何かと思って走っていったら、こいつが道路の真ん中で血まみれになっててさ」
「車は?」
「逃げてく車が一台あった。とっさに石を投げつけてやったんだが逸れちまって。そのまま行っちまった」
「…………」
「悔しかったろうな。こいつ。こんなあっさりやられちまって…………悔しかったろうな」
本当に、そうとしか言いようのないような悔しげな表情で、少年はじっと猫の死体を睨みつけていた。
可哀相でもなく、気の毒でもなく、ただ、ひたすら悔しい。
その感情は妙にこの少年に似合っているように僕には思えた。
「どうするの? この猫」
僕が訊くと、少年は口をへの字に曲げて考え込むように腕を組んだ。
「このままにしとくわけにはいかないからな。どっかに埋めてやろうと思ってんだが」
「うん」
「この堤防だったら、あそこかな」
辺りを見回し、少年は橋の下の薄暗い草むらを指さした。
「あそこだったら土も軟らかそうだし」
「あ……あんな所に埋めるの?」
思わず僕はそうつぶやいた。
日も差さないような薄暗い橋の下。滅多に人も通らなさそうで。
「あんな所じゃ、誰もこの子のこと思いだしてくれない」
「……えっ?」
ひっそりと死んでしまった野良猫。
この少年が気付かなければ、それこそいつまで道路に放って置かれたかわからない猫。
飼い主もいず。友達もいなくて。ずっと一匹で過ごしてきたのだろうか。
ふらりといろんな街に立ち寄って。きっと時には頭を撫でてくれる人もいただろう。餌を与えてくれた人もいただろう。でも、そんなのは全部通りすがりの出来事で、誰の記憶にも残らなくて。そうして、忘れ去られて消えていく。もう、思いだしてももらえない。
それは、一つの所に定住しない者のどうしようもないさだめであり、決して変えることはできない運命なのだろうか。
じゃあ、またな。
そう言って別れた友人と、僕は未だに再会など果たしたことはない。
僕は。
「忘れないでよ。お願いだから忘れないでよ」
知らずに僕の口からそんな言葉が飛び出していた。
たとえ通りすがりでも構わないから、憶えていて欲しい。
この猫が生きていたっていう事を、心の片隅のほんの小さな隙間で構わないから憶えていて欲しい。
「忘れるわけないだろ。バカかお前は」
呆れたように少年はそう言って立ち上がった。
「死んじまったからって、それで今までの事が全部なかった事になんてならないだろうが。こいつが生きてたって事は紛れもない事実なんだから」
「…………」
「ほら、泣きそうな顔してねえで。立てよ。行くぞ」
「行くって?」
「お前がんな事言うから予定変更だ。誰もがこいつのことを忘れねえような場所に埋めてやるんだよ。協力しろ」
「…………!?」
慌てて立ち上がった僕を待とうともせず、少年は猫を抱えたまま足早に歩きだした。
僕は急いで少年の背中を追う。
10分ほども歩いたろうか。少年が僕を連れてきたのは川のそばの小さな花畑だった。
花畑と言っても野草の草花が咲いているちょっとした広場のような所だ。
「此処に埋めるの?」
「ああ」
今にも枯れそうな花の根本を根っこを傷つけないように注意を払いながら少年は穴を掘りだした。
「……花の根本に埋めるのに何か意味があるの?」
僕は訊いた。
さっきの場所と、此処と、どれほどの違いがあるというのだろう。
そりゃあ、あそこに比べたらこっちのほうが日当たりもいいし、人も通るだろうけど。
「此処にこいつを埋めたら、来年きっとこの辺りには綺麗な花が咲く」
少年が言った。
「この猫の身体を栄養にして、土がどんどん肥えていく。そうしたら、毎年しなびた花しか咲かなかったこの場所に突然綺麗な花が咲くことになる。みんな不思議に思い、勘のいい奴は気付くかも知れない。いや、事情なんか知らなくったって、みんなが足を止めてふり返る」
「足を止めて?」
「それはそのままこいつが生きてた証拠になる」
「…………」
「忘れねえよ。オレは毎年此処の花を見る度思い出す。だから忘れねえよ」
「…………」
手を泥だらけにして少年は穴を掘り続けた。
僕も横から手を添えて、微力ながら穴掘りに協力した。
そして、ようやくある程度の大きさになった穴の中に猫の身体を横たえて、僕達はそっと掘り返した土をかけた。
猫を埋めた所の真上にまだ何とか咲き続けていた一輪の花を植え替えてみる。
この花の種が土に落ち、芽を出して、来年は綺麗な花を咲かせてくれるのだろうか。
そっと花びらを撫でて、僕ははっとした。
「あれ? この花」
「…………?」
「…………」
「どうかしたのか?」
少年が不思議そうに僕の顔を覗き込む。
「この花。勿忘草だ」
「わすれなぐさって言うのか。この花」
「うん。前に図鑑で見た事がある。間違いない。勿忘草だ」
「へえー。オレは本とか読まねえから花の名前なんて全然知らなかったぜ」
「僕だってそんなに読んでるわけじゃないよ。ただ、この花はね」
僕はくすくすと笑いながらそう言った。
そう、この花の名前に惹かれたから。それだけ何故か印象に残ってた。
勿忘草。
「忘れねえよ。いつまでも」
独り言のように少年がつぶやいた。
それは僕に向けられた言葉ではなかったはずなのに、なんだかとっても胸が暖かくなった。
「おーい、太郎! こんな所にいたのか。行くぞ!」
その時、突然後ろから僕を呼ぶ声がした。
父さんだ。僕は慌てて空を見上げる。すっかり日も落ち辺りが暗くなって来ていた。
いったい何時間、僕は居場所も告げず父さんに心配をかけてしまっていたのだろう。
手の泥を払い、僕は立ち上がった。
「親父さんのお迎えか?」
少年が一緒に立ち上がりながら僕に訊いてきた。
「うん。ごめん。僕、行くね」
「ああ」
駆け出そうとした僕は、ふと思いとどまり再び少年の方をふり返った。
「僕、岬太郎。君は?」
「…………」
一瞬ぽかんとした顔をした少年は、次の瞬間にっと精悍な笑顔を僕の方に向けた。
「オレは小次郎。日向小次郎だ」
「じゃあね。小次郎」
軽く手を振り、僕は父さんの方に向かって駆け出した。
風がやけに気持ちよかった。次の日、同じクラスになった沢木という少年に誘われて、僕は明和FCのグランドへと足を向けた。
そうしてそこで僕は再び運命の出会いを体験する。
「小次郎!?」
「あれ? お前、岬か!?」
なんとその明和FCの時期キャプテンだというこの少年は、昨日と変わらない印象的な目をして僕に向かって手を振った。
この街が、とても好きになれそうな予感がした。FIN.
2002.2 脱稿 ・ 2002.4.20 改訂