宇宙と海の狭間−第1章:宇宙−(1)

雨が降っている。
雨が、足に、腕に、顔に、ずっと降り続けている。
体温が奪いとられ、少しずつ意識が朦朧としてくる。手足を動かすことも出来ない。
誰かが、じっと自分を見下ろしている。
誰だろうと思い、ゆっくりと目を開ける。
哀しい瞳。とてもとても。
これ以上ないくらい哀しい瞳をして、その人は僕を見下ろしている。
誰だろう、この青年は。
すらりとした長身を蒼い鎧で包み、地面に突き刺した一振りの剣に寄りかかってやっと立っている青年は、雨の中、流れる血を拭おうともせず、じっと僕を見下ろしていた。
知らない顔。……いや、知ってる?
僕はこの瞳を知ってる。
何故、そんな顔をしているの?何故、それ程まで哀しそうに僕を見つめる?
青年の顔に浮かんでいる表情は、後悔なのか哀愁なのか、僕には読みとることができない。
ただ、感じるのは、どうしようもないほどの哀しさ。胸を切り裂かれるような心の痛み。
彼は……?

 

「伸! おい、伸! 大丈夫か?」
肩を強く揺さぶられて伸が目を開けると、秀の心配気な顔が自分をのぞき込んでいた。
「…………秀?」
少しかすれた声で、同室の友人の名を呼ぶと、パジャマが汗でぐっしょりと濡れていた事に気付き、伸は慌てて飛び起きた。汗ばんだ背中が気持ち悪い。
「大丈夫か? お前ずいぶんうなされてたぞ」
「うなされてた?」
驚いて訊き返す伸の膝の上に、乾いたタオルをポンと放り投げ、秀は大きく頷いた。
「ああ、なんか寝苦しそうだなと思って、様子見てたんだけど、どうしたんだ? 嫌な夢でも見たのか?」
「……夢……?」
あれは、夢なのだろうか。
「……解らない」
タオルで額の汗を拭いながら、つぶやいた伸を見て、秀はおもむろに伸の額に手を当てた。
「秀?」
「やっぱ、熱がある」
「えっ?」
「今、温かい飲み物と薬持ってきてやるから、これに着替えておとなしくしてろ」
そう言って、伸の為にTシャツをだしてやると、秀はパタパタと階下へ降りていった。
さすがに大勢の兄弟に囲まれて暮らしてきただけあって、秀はこういうときの処置が的確で速い。伸とは対照的なようで、こういう所、2人はとてもよく似ているのかもしれない。
ベッドから降り、汗で冷たくなったパジャマを脱ぐと、背中がゾクゾクとしだし、風邪でもひいたかな、と、伸はおとなしく秀の出してくれたTシャツに袖を通した。
濡れたパジャマを丸め、少しふらつく足取りで伸がベッドに腰をおろした時、当麻がひょいとドアの陰から顔をだした。
「どうした? 伸。」
両手に抱えきれない程の本をかかえたまま、当麻が声をかける。
「当麻。何、まだ起きてたの?」
時計は既に午前3時をまわっている。呆れた顔で言う伸を見て、当麻が少し拗ねたように唇をとがらせた。
「普通、この時間なら、“起きてたの?”じゃなくて、“起こしてごめん”って言うんじゃないのか」
「何言ってるのさ。一度でも寝たら、君がこんな時間に起きるわけないじゃないか。それにその山程の本を見て、どうやって寝てたって思えっていうの?」
「はいはい、オレが悪うございました」
諦めて本の束をサイドテーブルに置くと、当麻はそのまま、伸の隣に腰をおろした。
当麻の重みで少しだけベッドが軋む。
「秀が何か温めてたけど、具合悪いのか?」
「……えっ?」
「薬、飲むんだろ。解熱剤が置いてあった。」
めざといというか何というか、普段とてもおおざっぱなくせに、当麻はこういう事にかけては、異常に勘が鋭い。
「風邪か?」
「別に、なんでもないよ」
視線を逸らそうと横を向いた伸の顎を捉え、当麻は伸の額に自分の額をくっつけた。
「……ちょっとあるな、熱。……37.5度といったところか」
「君は人間体温計か?! 適当なこと言うなよ」
当麻の手を払いのけ、伸が言った。
まったく、何処まで本気で何処まで冗談か解ったもんじゃない。
「疑うんなら、あとで熱計ってみろよ。プラスマイナス0.3以内の自信はあるぜ」
「……まったく……」
多少呆れて、伸は当麻の自信満々の顔を見直した。
とたんに少し背中がゾクゾクしだす。本当に当麻の言ったとおり、熱が上がってきたんだろうか。
無意識に腕をさする伸を見て、当麻は脇にたたんで置いてあった毛布を取り出し、伸の肩にふわっとかけてやった。
「当麻?」
「風邪はひきはじめが肝心なんだ。温かくしとかなきゃな」
「…………」
「なんなら、オレが一晩中抱いててやろうか?」
にやりと不敵に笑う当麻の横っ面を思い切り張り倒して、伸は叫んだ。
「何考えてるんだよ!! 君は!」
「オレ、別に冗談言ったつもりはないんだけど……」
「なお悪い。……別になんでもないんだから。ちょっと夢見が悪かっただけで……」
「夢?」
当麻の瞳がふと曇り、すっと眉が寄せられた。
「どんな夢だ?」
先程までの態度とはうって変わって真剣な顔で、当麻は伸を見つめた。
「えっ……どんなって……」

雨の中、自分を見つめる哀しい瞳。
深い宇宙の色の……

伸は、はっとして当麻を見つめ返した。
この瞳だ。
雨の中の青年の瞳は当麻と同じ色をしていた。
何故、気付かなかった。あれは、天空の戦士だ。
いつの時代だろう。
天城ではなかった。では、もっと前か?
天空は何故、あんな哀しい瞳をしていたのだろう。
人間がここまで哀しい表情が出来るのだろうかと思う程、胸が張り裂けそうな程の哀しみを湛えた瞳。

「伸……?」
当麻が伸の瞳をのぞき込んだ。
「ごめん……当麻……」
何に対しての謝罪の言葉なのか。当麻は何も訊かず、そっとずり落ちていた毛布を伸の肩にかけ直し、毛布ごと伸の細い身体を抱きしめた。
当麻の心臓の音に耳を傾けながら、伸は静かに目を閉じて、当麻の胸に顔を埋めた。

哀しい瞳。
きっと、彼にあんな表情をさせてしまったのは僕だ。
いつの時代の、どの戦いか解らないけれど、きっと僕が彼にあんな表情をさせてしまったんだ。

「ごめんね……」
もう一度、伸が言った。
抱きしめていた腕の力を緩め、当麻がそっと伸の髪をなでた。
当麻の手は、信じられないくらい優しかった。

 

――――――「ホットミルクの出前、持ってきたぜ! ……あれ、当麻、来てたのか」
勢い良く足でドアを開けながら、秀が部屋に入ってきた。
「おじゃましてるよ」
にっと笑いながら当麻が言うと、伸はさりげなく当麻の腕の中から逃れ、まるで何事もなかったかのように秀の手から湯気のたっているマグカップを受け取った。
「疲れがとれるかと思って、少し甘くしといたぜ」
「ありがとう、秀」
両手でマグカップを持ち、伸はコクリと温かいホットミルクを飲んだ。
「本当だ。甘くておいしい。」
温かいミルクがゆっくりと胃に染み渡り、伸は人心地ついたようにほっと息をついた。
「さ、それ全部飲み干したら、薬飲んで温かくして寝ろよ」
秀の言葉に笑って頷くと、伸はそのまま一気にホットミルクを飲み干した。

雨の中の哀しい瞳の天空の戦士。
今の、この暖かな時間の中にも、確かにそれは存在していた。
遙か昔から続けられた、自分達の戦いの歴史。哀しい記憶。
当麻の頭の中にある数限りない、思い出の中のひとつ。
彼は、いつあんな哀しい瞳をしたのだろう。
自分は、その時、彼を救うことは出来なかったのだろうか。何故、自分は彼にあんな表情をさせてしまったんだろうか。
伸は無言で自分を見つめる当麻の視線を感じながら、思った。

「じゃ、オレこのカップ洗ってくるから、ちゃんと寝てろよ」
「はいはい」
伸にそう告げると、秀は元気に階下へと降りて行った。
「やけに甲斐甲斐しく世話やくな、あいつ」
「たまにはお兄さんぶりたいんだよ。長男だからね」
「そういうものなのか?」
「一人っ子の当麻には、解らないだろうけど」
「何を言うか、オレだって妹を持った時があるぞ」
「……えっ……?」
一瞬しまったというような顔をして、当麻が伸から視線を逸らせた。
「…………」
「……と、とにかく、秀の言うとおり、おとなしく寝ろ」
身を起こしかけた伸を、手で押し戻し、当麻は伸の身体に毛布を掛けてやると、多少慌てた口調でそう言った。
「それから伸、秀にばっかり頼らずに、何かあったらオレを呼べよ。すぐ飛んでくるから」
「…………」
「何だよ、その顔は」
伸の視線に、少し拗ねた様子で当麻が言った。
「僕が呼んだくらいで、君、起きる自信があるの?」
冷たい伸の言葉にがっくりと肩を落とし、それでも気を取り直して、当麻はにっこり笑いかけた。
「お前がオレを本当に必要な時は、いつでも駆けつけてやるよ。任せとけって。愛する者の為なら、たとえ火の中、水の中ってな」
「バカ」
大げさにため息をつき、最後にそっと伸の髪を優しくなでてから、当麻は部屋の明かりを消して出ていった。
本当に冗談のように、当麻は言う。
“お前の為ならなんでもしてやるよ”
本当に、いつも、いつも。どんな時も。
伸の瞼の裏に、先程の哀しげな青年の瞳が蘇った。

 

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