二分の一の幸せ (2)

もともと身体の弱かった母様は、オレ達を生んでからずっと、ほとんどベッドを離れられない生活をしていた。精神的にも肉体的にも、もう母様は限界だったのだ。
オレ達が11歳になった頃、すっかり寝たきりになってしまった母様は、以前にもまして兄者をそばから放さなくなっていた。
母様は兄者の手からしかものを食べない。
兄者が手を握っていてやらないと安心して眠ることも出来ない。
母様は兄者の姿が見えないだけで、ひどく不安定な精神状態になった。
オレは母様の部屋に近づくことも許されず、遠くから日に日に弱まっていく母様の生命の炎を見ていた。
不思議な気持ちだった。
哀しいのか嬉しいのかすら解らない。
不思議な気持ちがオレの心を支配する。
オレを見ようとしない母様。オレの存在を認めようとしない母様。
オレは母様が死んだら泣くのだろうか。
このまま母様が亡くなったら、オレは結局一度も母様に頭を撫でてもらう事すらなく生きることになる。
これは不幸な事なのだろうか。
二分の一の倖せ。
それはオレには一生与えられない倖せなのだろうか。

 

――――――「今夜いっぱいもつかどうか」
月明かりさえない暗い夜。母様の眠る部屋の扉を薄く開け、じっと中の様子を窺っていたオレは、とうとうそんな父さんの言葉を耳にした。
父さんは母様のベッドの脇に立ち無感動な目で自分の妻を見下ろしている。
冷たい視線。
オレはそんな父さんを見て思う。もう父さんは母様を愛してはいないのだろうか。
母様の目が兄者しか見なくなったあの時から、父さんはもう、自分の妻を愛することが出来なくなったのだろうか。
倖せだった思い出はずっとずっと遥か忘却の彼方にある。
「これの命が尽きたら、蒼龍と共に棺に入れてやろうと思うのだが」
「…………!?」
隣に立ち、父さんと同じように母様を見下ろしていた、母様の主治医の先生に向かって、父さんはまるで兄者のことをお気に入りの人形か何かのように言った。
母様の主治医の先生は、オレ達家族以外で唯一兄者の存在を知っている人だった。だから母様と兄者の関係性もよく知っている。
ただ、そうは言っても先生はさすがに驚いて声をひそめた。
「……蒼龍君をですか?」
「もともと蒼龍はこれの為に生かしておいてやったようなものだ。これが死ねば存在価値は無くなる」
「…………!」
オレはそっと音を立てないように扉を閉じた。扉が閉まる直前、主治医の先生が思わず息を呑んだ音だけが微かに聞こえたような気がした。

やっと解った。
以前兄者が言っていた言葉の意味が。
兄者はきっと知っていたのだ。自分が殺されることを。
いや、自分が何のために生かされていたのかを。
だから、あんなことを言ったのだ。

父さんは兄者を本当にいらないものと思っていたのだ。
まるで使い古したおもちゃを捨てるように兄者の命を奪おうと思っているのだ。
生まれなかった子供。
そう。最初から生まれなかった子供なのだ。兄者は。

オレは無意識のうちに兄者の部屋の前に立っていた。
母様が死ぬ。そして兄者も。
兄者は死んでもずっと母様と共にいるのか。未来永劫ずっと。同じ棺の中で。
オレは部屋の扉を開け、そのまま中へと身体を滑り込ませた。
照明ひとつない暗い部屋。
盲目の兄者には必要ないものだと言って、父さんはこの部屋に明かりを入れなかった。昼間はそれでも窓から入り込む僅かな光で室内は明るくなるが、今は真夜中。月明かりさえ入ってこない真っ暗闇の部屋。
兄者はベッドの上で微かな寝息を立てていた。
オレはゆっくりとベッドのそばに近寄り、兄者の寝顔を見下ろした。まるで鏡の中の自分のようなそっくりの顔をしている兄者。
オレ達ははじめから二人もいらなかったんだ。神様の気紛れで二つに分かれてしまっただけで、本当は一人だったんだ。だって兄者が消えても誰も気づかない。誰も哀しまない。
生まれなかった子供の為には、誰も涙を流しはしない。
「…………」
オレは腕を伸ばし、そっと兄者の髪に触れ、頬に触れ、最後に首元に触れた。
細い首。ちょっと力をいれれば簡単に絞め殺せそうな程の。
当たり前だ。兄者は生まれてからずっとこの家を出たことがないのだから。体力がなくても、筋肉が弱くても不思議ではない。
このまま父さんが兄者を殺せば、自由に走り回って、太陽の光を浴びて、風の匂いを感じて、そんな当たり前の事を何一つ知らないまま兄者は逝ってしまうのだろうか。
「…………」
オレはそっと兄者の首に添えた手に力を込めた。
どうせこのまま死ぬのなら。兄者が本当に生まれなかった子供なら。以前兄者が望んだようにオレの手で冥土へ送ってやるのは、良いことなのだろうか。
オレは少しでも罪の意識を感じるのだろうか。
兄者がオレにあんな事を言った本当の理由は、オレに対する一種の愛情なのか。それともずっと母様を独り占めしてきたことに対する後ろめたさなのか。
「…………!!」
その時、ふいに兄者が目を開け、見えないはずの瞳でじっとオレを見つめた。
「……あ…………」
兄者は特に驚いた顔も見せず、抵抗もしなかった。そして、あろう事か兄者は微かに笑ったのだ。
「どうした、ギョク。オレを殺しにきたんだろう」
当たり前のように兄者が言った。
オレは思わず兄者の首から手を放し、乗り上げていたベッドから降りると数歩後退さった。
「ギョク。何故やめるんだ」
むくりと兄者がベッドの上に身を起こす。そして、まるで目が見えているかのように、じっとオレの顔を見つめた。
「あ……あの……」
喉が引きつってうまく声がだせない。
オレは何をしたかったのだろう。本気で兄者を殺したかったのか。
「兄者……」
オレはやっとの事で声を絞り出した。自分が微かに震えているのが解る。
オレは今まで兄者の事を好きだと思ったことなどなかった。
いつもいつも母様のそばに居る兄者を羨ましいと思いこそすれ、愛しいと思った事などなかった。
だけど。
何故、オレ達はこれ程似た顔をしているのだろう。
何故、オレ達は二人で一人なのだろう。
何故、オレは兄者を見ているだけでこれ程胸が苦しくなるのだろう。
「兄者、行くぞ」
「…………?」
何処へ。そう言いたげな目をして兄者がオレを見る。
「此処から出るんだ。外へ行こう」
オレは言うが早いか兄者の腕を掴み、ベッドから降ろすと、部屋の窓を開けた。
小さな窓。外から兄者の姿が見えないようにと特別に設えた小さな小さな窓。だが、子供一人ずつくらいなら、何とかくぐり抜けられる。
「ギョク……?」
オレは戸惑う兄者の身体を無理やり窓の外へ押しだし、自分も後を追って外へ飛び出した。そして、そのまま雨樋を伝ってタンっと石畳の道へと飛び降りたオレは、兄者の手を引いて走り出す。
少しは抵抗するかと思ったのに、兄者はオレに手を引かれたままおとなしく走り出した。
月のない暗い夜道。どうかすると伸ばした手の先さえ見えない程の。
ああ、霧が出てきたんだ。兄者の手を引きながら、ぼんやりとそう思った。
霧の所為で視界がすこぶる悪く、前も後ろも右も左も闇、闇、闇に思える。
闇の中。
ああ、そうか。兄者が見ているのは、こんな世界だったんだ。
はじめてそんなことにオレは気が付いた。


オレは兄者の手を握りしめ、ただひたすら走り続けた。
もう、帰る場所もない。守ってくれる人もいない。オレ達は生まれなかった子供なのだ。
「海……?」
周りの潮の香りに気付いたのか、ぽつりと兄者がつぶやいた。
「海へ出るのか?ギョク」
「…………」
オレは何も答えず兄者の手をぐいっと引っ張った。
行く当てなどない。だけど遠くへ。ただ遠くへ行かなければ、オレ達に生きる術はない。
「…………!!」
その時、突然、兄者の足が止まった。
「どうした?兄者。」
手を引きながら振り向いたオレを見て、兄者が真っ青な顔で何か言おうとした。
「…………?」
「ギョク……今……」
「…………?」
しばらく戸惑ったような表情をオレに向けていた兄者は、やがて小さく首を振った。
「何でもない」
「……えっ?」
「何でもないよ。行こう」
そう言って兄者は今度はオレの先に立って歩き出した。
初めて歩く外の世界だというのに、兄者の足どりはやけにしっかりしていて、オレは驚いて先を行く兄者の背中に声をかけた。
「兄者。あんまり早く歩くな。転ぶぞ。目も見えないのに」
「大丈夫だよ」
振り返って兄者が笑った。
「見えていなくても周りの建物の位置くらい感じ取れる。それに、何か危険な事があったらお前の手を通して感じられる」
しっかりと握りあったお互いの手を指して兄者は言った。
「手を通してって……」
「お前にも解るだろう。オレの心が」
オレはハッとなってもう一度握りしめた兄者の手を見つめた。
では、先程から胸がドキドキと高鳴っているのは、これは兄者の心なのだろうか。
初めて触れた外の空気。踏みしめた石畳の感触。風の匂い。
兄者の心の中にはあらゆる複雑な感情が見え隠れしている。
「行こう」
兄者が言った。

 

――――――やがてオレ達は大きな港へと辿り着き、闇に紛れて一艘の貨物船に忍び込んだ。
南の方へ行くらしいその船には、大量の穀物や肉の薫製が積み込まれている。見つからないように船底へと潜り込み、オレ達はようやく一息ついた。隣に座り込んだ兄者は、苦しそうにハアハアと肩で息をしている。
そういえば、兄者は家の外へ出たことがない。ということは、つまり、こんなにたくさん歩いたのは初めての経験だったのだ。疲れて当たり前だ。もう少し気をつければよかった。
「大丈夫か?兄者」
「ああ。すまないな、足手まといで」
足をさすってやりながら訊いてみると、兄者はすまなさそうにそう答えた。
「何処か適当な所へ着いたら船を降りよう。そこからオレ達の新しい生活が始まる」
元気を奮い立たせようとわざと明るくオレが言うと、兄者は微かに笑って頷いた。
「新しい生活か。お前にもらった命、大事にしないとな」
ふうっと大きく息を吐き、兄者はそっとオレの頭を撫でた。オレは思わず兄者の見えない目を覗き込む。
「兄者……」
「…………ん?」
「兄者は知ってたのか?母様が死んだら自分がどうなるのか」
「…………」
何も映さない漆黒の瞳で兄者はじっとオレを見つめ返した。
「父さんの考えていることくらいわかる。あの人が何の為にオレを生まれなかった子供として扱っていたのかも」
「…………」
「だから、オレの命は今日で終わるはずだったんだ」
「兄者」
「こんな形で未来が手にはいるとは思ってなかった。そうそう捨てたもんじゃないって事か」
「…………」
「ギョク」
突然、真剣な顔をして兄者がオレの顔を覗き込んできた。本当にこうしていると、兄者の目が見えないって事を忘れそうになる。
「な……なに?」
「ギョク。母様、死んだよ」
「…………えっ?」
一瞬言葉が出なかった。
「あ……兄者、何言って……」
「本当だ。さっき」
「さっき?いつ……」
言いかけてオレはハッとした。それはきっと、突然立ち止まって兄者がオレに何か言おうとしたあの瞬間だ。
「あ……あの時?」
静かに兄者が頷いた。
「あの瞬間。完全に母様の気配が消えた」
「…………」
「ごめんな。ギョク」
「…………」
何の為の謝罪の言葉なのだろう。ぼんやりとオレは考えていた。
オレは哀しいのだろうか。母様の死をオレは哀しんでいるのだろうか。
やはりよく解らなかった。
オレはきっと心の何処かが欠落しているんだ。
だから、哀しいと嬉しいの区別がつかない。
ただ何故か、その時オレの瞳から一粒、涙がこぼれ落ちていた。

遠く微かに汽笛の音が鳴り、船が振動を始める。
何処へ行くのだろう。
お互い身を寄せ合って、オレ達は同じ事を考えていた。
もう二度と逢えない母様と、戻ることのない街。
そして失うことの出来ない半身。

その日初めて、オレは兄者の腕の中で赤ん坊のように眠った。

FIN.      

2001.10 脱稿 ・ 2002.02.23改訂 ・ 2017.10.06再改訂    

 

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