リトルバード−第1章:駒鳥−(1)

あなたと同じものを見てみたかった。強くなりたかった。
約束したんだ。また来年逢おうって。
約束したんだ。今度は優勝だねって。日本一だねって。
そしたら、勝負を挑むから。
日本一になったあなたの最初の挑戦者になるって。
きっと。約束だよ。
指切りしたからね。忘れないでね。

その日、小さな手に鋏を持ち、その子は長い髪を惜しげもなく切った。

 

――――――「……で、これは一体どういう事なんだ?」
「いや……どう…と言われましても」
冷たい紫水晶の瞳に見下ろされて、秀は困ったように頭をかいた。
「質問が悪かったのなら訂正しよう。では、どうするつもりなんだ?」
「いや、だからな。つまり……」
秀は大きくため息をついて、目の前にいる1人の子供をちらりと見ると、自分の左側で同じように困った顔をしている伸に、助けを求める視線を投げた。
その日、いつものように朝のジョギングから帰ってきた秀は、腕の中に小さな子供を抱えていた。
大きめのパーカーを着て、野球帽を目深にかぶったその子供は、どう見ても小学生か、いっていても中学1年生くらいにしか見えなかった。
「どうしたんだよ、秀」
小さな身体を丸めて秀の腕の中で眠っているその子供を、真っ先に見つけて駆け寄ってきた伸に、秀はジョギングの最中、道端で倒れているのを見つけたんだと事情を話し、とりあえず居間のソファにその子を寝かせようと、連れてきた。
眠っているのか気絶しているのか、ぐったりとしたその子の身体をソファに横たえ、秀と伸がこれからどうしようかとお互い顔を見合わせた時、身支度を整え、居間に降りてきた征士がそれを見つけ、信じられないといった顔をして、秀の行動を責め立てた。
「いや、あんな所で寝てるもんだから、オレてっきり行き倒れだと思って……」
道のはずれの山道に入る入り口の所に、その子供は倒れていたのだと言う。
バス通りからも少しはずれていて、秀が見つけなかったら、恐らく誰にも気付かれないまま、今もそこにいたであろうその子供は、周りの喧噪など一向に気付かぬ様子で、まだ眠り続けている。
「全く、どこの誰かも分からないような子供を、事情も聞かず家に連れてくるなど、言語道断だ」
「オレ、ちゃんと近くに両親とかいないか探したんだぜ。でも、誰の姿も見あたらなくて。いくら声かけても、この子、一向に目を覚まさないし、どっか具合悪いのかと思ったんだよ」
「…………」
「仕方ないだろ。あんな所に放っておけるわけないじゃないか」
「だからって、此処に連れてきてどうすんだ。行き倒れなら、警察行くのが常識だろ」
いつの間に来たのか、征士の後ろから当麻が身を乗りだして口を挟んできた。
「だってさー。あそこから警察までって5km以上はあるんだぜ。それに比べて家までは1kmもないんだから、どっちに連れ帰るかっていや、考えるまでもないじゃんか」
「貴様、犬や猫の子を拾ってくるのとはわけが違うのだぞ!」
「そんな事言って、じゃあ、征士だったら、見捨てて行っちまうのか?」
「誰も見捨てる等とは言っていない」
「言ってるのも同じだろ!!」
「秀! 失礼なことを言うな! 私だって……」
「2人共、そんな大声ださないでよ。この子がびっくりして起きちゃうよ」
今にも一触即発状態の征士と秀の間に伸が宥めるように割りこんだ。
「……あ、ほら……」
その時、伸の見下ろした先で、眠っていたその子供の瞼がぴくりと動き、やがてゆっくりと目を開けた。
「…………」
寝ぼけ眼でぼんやりと辺りを見回したその子は、自分の目の前の伸と、その後ろから覗き込んでいる少年達の姿に気付き、驚いて息を飲んだ。
「…………あ……」
この事態をどう解釈していいか解らないといった表情で、その子供の目がこぼれ落ちそうな程大きく見開かれていく。
「あ……あの……?」
「ごめんね。びっくりしたろ。怖がらなくていいからね。君、この先の道で倒れていたんだよ。覚えてない?」
「倒れて……?」
「そう。このお兄さんが、君を見つけて連れて来たんだけど、君、どうしてあんな所に居たの? ご両親は?」
なるべく怯えさせないように気遣いながら、伸は優しげに微笑みかけた。
「大丈夫? 身体とか、痛いところとかない?」
伸の極上の笑顔に、やっと少し安心したのか、その子供が目深にかぶっていた野球帽を脱ぎ、ソファから身体を起こした。
さらりと流れる、短めの髪。
黒目がちな大きな瞳で少し小首を傾げる仕草が、小鳥のような印象を与える。
「どうしてあんな所に居たの? 名前は何ていうの?」
ゆっくりと繰り返される伸の質問に答えようと、口を開きかけたその子の視線が、ふと征士の紫水晶の瞳に注がれた。
「…………!!」
とたんに口をつぐみ、その子はしばらくじっと征士を見つめたまま動かなかった。
「…………?」
不審気に眉を寄せた征士を見て、はっとして視線をそらしたその子は、次いで何故かぽろぽろと大粒の涙を流し始めた。
「ど……どうしたの……?」
慌てて伸がポケットからハンカチを取り出す。
「分からない」
「……えっ?」
「……何処から来たのか、分からないんだ……」
「……!?」
そのまま、大声をあげて泣き出してしまった子供を前に、伸はなす術なく天を仰いだ。

 

――――――「名前も年も住んでた所も、ご両親の事も、何故あんな所に居たのかも、いっさい思い出せないんだって」
泣き疲れて再び眠ってしまったその子供にそっと毛布をかけ、伸は当麻達の待つ書斎へ来ると、困ったようにそう言った。
「とんでもない拾いものをしたな。秀」
当麻の発言に、秀は助けを求めるように伸を見る。
「とりあえず、やっと落ち着いて眠ったばかりなんだから、しばらくはそっとしておいてあげようよ」
伸がそう言うと、遼もそれがいいと頷いてくれ、秀はほっと安堵の吐息を漏らした。
「だが、いつまでもこの家においておくわけにはいかないだろう」
征士が窓際で腕を組み、何か良い案はないのかと、当麻に視線を注ぐと、それに答えるように当麻が手元のパソコンの電源を切って、立ち上がった。
「んー、じゃあ、とにかく警察に行こうか、伸」
「警察?」
「行方不明者や家出人とかの捜索願いがでてるだろうし、うまくすりゃ両親が探しにきてるかもしれないしな」
「あ、そうだよね」
しばらくはまだ眠っているであろうあの子供が目覚める前に、ご両親と連絡がとれたら、こんな安心な事はない。
伸が頷いたのを見て、当麻が当然のように遼に言った。
「じゃ、遼、カメラ持ってきてくれ」
「カメラ?」
きょとんとして遼が聞き返す。
「カメラをどうするんだ?」
「写真を撮るんだよ。あの子の。まさかお前、あの子の顔写真もなしで、警察にどう説明すると思ってんだ? 名前も何にも分からないんじゃ、顔しか手がかりはないだろう」
「分かった。ちょっと待ってろ。すぐ取ってくる」
ぱたぱたと2階へ駆け上がっていく遼を見送ると、伸はもう一度子供の様子を見に居間へ向かった。
子供はさっきと同じ格好で、まだすやすやと気持ちよさそうに眠っている。
あどけない顔の小さな子供。
秀がおもわず放っておけなくて、連れ帰ってしまった理由がよく分かる。
きっとあそこを通りかかったのが誰であれ、この子を見捨ててはいけないだろう。
恐らく征士だって、その例外ではなく。
無条件で手を差し延べたくなる。そんな気がする。
さっき、自分の腕の中で怯えた小鳥のように震えていたその子の瞳を思い出し、伸はそっと眠りを妨げないように注意しながら、優しく髪を撫でてやった。

 

――――――「伸、写真撮るけど、大丈夫そうか?」
「うん、起こさないように気を付けてね」
「OK」
昔、父親に貰ったのだという、少し古い型の一眼レフのカメラを構えると、遼の横顔がすっと引き締まる。
単なる確認の為の顔写真のはずなのに、遼の手に掛かると、まるで芸術作品を撮っているような気分になる。
伸は感心したように、写真を撮る遼の姿を目で追いかけた。
遼の父親は生体動物写真家だと聞いた。
その所為で年中出歩いているという父親のため、遼は幼い頃から独りで過ごすことの方が多かったと言うが、それでも父親の事を責める言葉など伸は遼の口から一度も聞いたことがなかった。
やはり、血なのかな、と思う。
父親と同じように写真が好きで、だから遼は父親の事を許せるのだ。父親と同じものを目指している限り、遼と父親との絆は深まりこそすれ、切れることはない。
途中まで使っていたフィルムの残り数枚に何とか寝顔の写真を納めると、遼は手早くフィルムを巻き取り、伸に手渡した。
「じゃ、これ頼むな」
「ありがと、遼」
半透明なフィルムケースの中のフィルムが36枚撮りなのに気付き、伸はふと顔を上げて遼を見た。
「これ、他にどんな写真がはいってるの?」
「……あっ!!」
とたんに遼が一瞬しまったという顔をした。
「…………?」
「いや……あの……ほら、この間みんなで花見をしに行った時の写真だよ」
「花見? ああ、先月行ったあの時?」
「そうそう」
先月の初め、あまりに桜が綺麗で、遼がどうしても桜の写真を撮りたいと言うので、日曜日を利用して、花見がてら5人で桜の名所巡りをした。
遼は嬉しそうにはしゃぎながら、山程の桜の写真を撮っていた。
「でも、あれ全部すぐ現像したんじゃないの?」
「少しフィルム余っちゃって、残りは今度別の時撮ろうと思って、そのままにしておいたのが残ってたんだ」
「ふーん」
「……あの……さ、伸」
「何?」
「……できたら……その……」
言いにくそうに口ごもり、遼は上目遣いに伸を見た。
「……?……どうしたの? 遼」
「できたら……その写真……あんまり……」
「…………?」
「遼、写真撮れたか? 準備できたら行こうぜ、伸」
無遠慮な当麻の声に、遼はとっさに居間の入り口を伺った。
「……遼?」
「あ、何でもないよ、伸。行ってらっしゃい」
「…………?」
背中を押され、伸はとまどいながらも当麻が持ってきてくれた上着を受け取り、鞄の中にフィルムをしまうと、もう一度遼を振り返った。
「遼、ホントに何でもないの? 何かあるんなら、訊くよ?」
「何でもないから、早く行って来いよ。後のことは任せて」
にっこりと多少ぎこちなく笑う遼を見て、伸はそれ以上の追求を諦め、じゃあ、キッチンにスープが作り置きしてあるから、あの子が目を覚ましておなか空かせているようだったら食べさせてあげてと、留守番3人組に後のことを頼み、当麻と共に警察へと出かけて行った。
いってらっしゃいと手を振る遼の様子を、最後にちらりと当麻が振り返った。

 

――――――「何、悩んでるんだよ、伸」
とりあえず写真屋に寄ってフィルムを現像にだした後、時間つぶしに入った喫茶店で、向かい合わせにコーヒーを飲みながら、当麻は頬杖を付いて考え込んでいる伸を伺うように見た。
「……うん……ちょっとね」
言いながら伸は飲みかけのコーヒーを両手で抱え、窓の外を眺める。
時は5月。ゴールデンウィークの真っ最中ということもあり、街はたくさんの人で賑わっていた。
通りを行き交うカップルや親子連れの姿。走り回る子供達。
転んで泣き出す子供を宥めている母親の姿も見える。
「伸?」
先を促すように、当麻がそっと伸の名を呼んだ。
「……別に、大したことじゃないんだけど……遼が……」
「遼が?」
「さっきさ。何か言いたそうだったんだけど」
「何かって?」
「わかんないんだ。急に何でもないって」
「……何でもなくなさそうだったんだ。遼の様子は」
「……うん」
「心当たりは?」
「ないよ。写真の事、話してる最中だったんだけど……」
「写真って、さっき現像にだした?」
「そう。秀の連れてきた子供の写真の他に、この間撮った桜の写真が入ってるって言ってたんだけど……なんか……」
「ふーん」
気のない返事をして当麻は残りのコーヒーを飲み干すと立ち上がった。
「自分より先に現像した写真見られるのが嫌なんじゃないか? カメラマンってそういうもんだろ」
「あ、なるほど」
確かにそうかもしれない。
そういうこだわりが遼の中にあることは想像できる。
いつも、現像した写真を丹念に一枚一枚確認した後、遼はほっと安堵の吐息を漏らす。
そして会心の一枚を嬉しそうに差し出すのだ。
見事な空や雲や花や鳥や、遼が愛するたくさんの自然の姿を写し取った写真。
「さ、時間だ。行こうぜ。伸」
ちょうど1時間。そろそろ写真の上がる時間だと当麻に促され、伸は伝票を手に立ち上がった。
カランとしゃれた音のする喫茶店の扉を開け外へ出ると、爽やかな風が頬をなでる。
空には眩しい太陽が輝き、春の陽気が辺りを包んでいる。
気持ちのいい、晴れ渡った空だった。

 

――――――「さて……と」
現像された写真を早速2人で覗き込む。
「可愛く撮れてるね。さすが遼だ」
今にも寝息が聞こえてきそうな、あどけない顔の写真を手に伸が可笑しそうに笑った。
「確かに、可愛い子だな」
当麻も感心したように相づちを打つ。
「こうなると目を開けた写真も欲しいよね」
「同感」
頷きながら残りの写真をめくっていた当麻の手が、ふと、ある写真の所で止まった。
「…………」
ちらりと隣の伸を見ると、伸はまだ子供の写真をしげしげと眺めている。
「…………」
そっと、気付かれないように当麻は写真を抜き取り、自分のポケットに入れた。
「じゃ、行こうか。伸」
「あ、うん」
そのまま少し先の警察署へと歩き出した当麻を追って、伸は小走りに駆けだした。
「当麻、他の写真は?」
「ああ、綺麗な桜の写真ばかりだったぞ。やっぱり自分が一番先に見たかっただけじゃないのか? 遼の奴」
「そう?」
当麻が渡してくれた残りの写真にざっと目を通し、伸はそのまま写真を袋に入れると、鞄の中にしまい込んだ。
小鳥の鳴き声が、通りの向こうの公園の中から微かに聞こえてくる。
耳をくすぐるような、綺麗な鳴き声だった。

 

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