透明な鏡−第1章:遠い記憶−(1)

「あ……ごめんなさい!」
すれ違いざま軽くぶつかった肩からさらりと見事な黒髪が流れ落ちた。
シャンプーか何かのCMに出てもおかしくないほどの艶やかな黒髪。烏の濡れ羽色というのはこういうのを言うんだろうか。
伸がそんな事を思って思わず振り返ると、当麻も同じ事を思っていたのか、伸の隣で言葉をなくしてじっと食い入るようにその女性の姿を見つめていた。
「すいません。こいつがボーっと歩いてたから。大丈夫ですか?」
「あ、ええ」
さっとしゃがみ込んで、ぶつかった拍子に歩道に落ちてしまったショルダーバックを拾い上げ、伸が手渡すと、女性ははにかんだような笑みを浮かべて小さく会釈を返した。
「ごめんなさい。ありがとう」
恐らく年は伸達より年上であろう。卵形の古風な顔立ちに大きな黒目がちの瞳。穏和な顔立ちの中、意外なほどきりっと引き締まった唇が印象的に見える。
一見OLか大学生のように見えるのに、伸の手からバックを受け取りながら頬を赤らめた彼女は、なんとなく幼く伸の目に映った。
可愛いと綺麗が半分ずつ。
こんなことを思ったら失礼にあたるのかな。そんな事を考えながら、伸も彼女に軽く会釈を返した。
「すごい人混みですよね。私、此処に来るのは初めてなんですが、いつもこうなんですか?」
「ええ、今の時間は歩行者天国になってますから。僕達もこの辺り詳しくはないんですけどね」
せわしなく行き交う人混みを眺めてふっと微笑んだ彼女は、やはり一瞬はっとするほど綺麗だった。
「有り難うございます。じゃあ」
「待ってくれ!」
もう一度軽くお辞儀をして背を向けようとした彼女の腕を、その時、いきなり当麻がつかんで引き寄せた。
「………!?」
「……あんた、名前は?」
「……えっ?」
「何処に住んでるんだ? 此処に来るのは初めてって事は、住んでるのはこの近くじゃないって事か?」
「ちょっと当麻?」
いきなりどうしたのかと、伸は慌てて当麻から彼女の腕を引きはがした。
「どうしたんだよ。いきなり失礼じゃないか」
「失礼なのは重々承知している。頼む。教えてくれないか。名前と住所と……出来れば、今度時間作って会って欲しいから、その了承が欲しい」
「……なっ……?」
当麻がかなり自己中心的なマイペース男だと言うことは解っていたが、いくら何でもそれはないだろう。
伸があまりのことに目を丸くして絶句していると、女性の方も突然の事に驚いたのか、何も言葉を返せずにじっと当麻の顔を見つめ返していた。
「初対面でこんな事言って申し訳ないが、頼む。このままあんたと別れたくないんだ」
「……!」
当麻の真剣な口調に思わず伸はもう一度まじまじと隣に立つ女性を見つめた。
さらさらの見事な黒髪。白い肌。形のいい唇。
そんなに濃い化粧をしているわけではないみたいなのに、どうしてこんなに透き通るような白い肌をしているのだろう、この女性は。
何故かいたたまれなくなり、伸はすっと彼女から目をそらした。
「……名前は?」
伸の様子の変化に気付かないまま、当麻は更に彼女にたたみかけるように話しかけている。
「あの……さくや……見剣咲耶といいます」
「咲耶さんか。オレは当麻」
「当麻さん……?」
「そう。羽柴当麻」
嬉しそうに笑った当麻を見て、伸の胸がズキンと痛んだ。
何故だろう。胸がムカムカする。
この場にいることが耐えられなくなってくる。
まだ咲耶と話し続けている当麻に気付かれないように、伸はすっとその場を離れて歩きだした。
少しでも早くこの場から遠ざかりたい。でないと自分は何を言い出すかわからない。
自分でも解らない苛立ちを抱えながら、伸はついにそのまま当麻を置き去りにして駅に向かって走り出した。

 

――――――「酷いと思わないか? 気がついたらいないんだぜ。そりゃ用事は終わってたから、あとは帰るだけって状態だったのは確かだけどさ。いくらなんでも、人がちょっと立ち話してる間に置き去りにされるとは思わなかった」
「どうせ、また貴様が知らないうちに伸の機嫌をそこねるような事したんだろう」
居間で不満気に口をとがらす当麻に冷たい視線を投げかけ、征士は再び読んでいた本に目を落とした。
「お前なー。頭からオレが悪いって思ってないか?」
「違うのか?」
「心当たりなんて全然ないよ」
「ほう?」
貴様が気付いていないだけだろうとでも言いたげな征士の視線に当麻はますます口をとがらせて深々とソファに腰を埋めた。
「まあまあ。今日の夕飯はお前のリクエスト通りちゃんとお好み焼き作ってくれてるんだから大丈夫だよ。さっきキッチン覗いたら山盛りのキャベツの千切りがあったぜ」
テレビのチャンネルを変えながら秀がフォローを入れると、遼も秀の隣で明るい笑顔を当麻に向けた。
「そうそう。美味いお好み焼き食って、機嫌なおせよ。当麻」
「ちぇっ」
先程、当麻より一足先に家に帰ってきた伸は、そのまま食事の準備にとりかかったらしく、当麻が遅れて家に辿り着いた時には、キッチンで黙々とキャベツを切っていた。
今日は天気も良く、朝はすこぶる上機嫌だった伸が買い出しに出かけるというので、当麻は荷物持ちに立候補し、街までついていったのだ。
何がいけなかったんだろう。
自分は何処で伸の機嫌をそこねてしまったのだろう。
ついでだからちょっと遠出して大型書店に寄って欲しいと言って、引っ張り回したのがいけなかったのだろうか。
偶然見つけてしまったハードカバーの本を3冊も購入したおかげで、結局荷物の大半は伸が自分で持たなければいけなくなった事を怒ってしまったのだろうか。
細かいことを言いだしたらきりがない程、いろんな失敗が頭をよぎる。
うーんと唸って当麻が頭を抱えた時、山盛りのキャベツの千切りと豚肉やイカ、エビなどの材料の入ったボールを抱え伸が居間に現れた。
「お、準備万端か?」
すかさず秀がソファから飛び降りる。
「秀、キッチンに残りの材料と調味料があるから取ってきてよ」
「了解」
軽い足取りで秀がキッチンへ向かうと、遼もいそいそと立ち上がり、ダイニングテーブルに置いたホットプレートのスイッチを入れた。
「でかい鉄板とかあればいっぺんに焼けるのになあ。これじゃ、1枚ずつしか焼けないな」
「本当にね。でも、仕方ないよ。僕達が越してくるまで、此処はナスティとナスティのおじいさまの二人暮らしだったんだし、ホットプレートがあった事自体感謝しなきゃ。ただ、本音を言えば、電気で温めるホットプレートより、実際の火を使った方が美味しく焼けるから、本当は火で焼きたいんだけどね」
くすくすと笑いながら伸はプレートが温まってきたことを確認して、とろりとしたお好み焼きの生地をプレートに流し込み、器用な手付きで丸く円を描いた。
「うわぁ……」
遼が感嘆の声をあげる。
丸くなった生地の上にこれでもかというほどキャベツを乗せ、エビや天かす、刻んだネギが彩りを添える。最後に豚肉を乗せてもう一度上から生地を流し込む。
鮮やかな伸の手付きはいつ見てもほれぼれする程見事である。
このままお店を持っても良いんじゃないかと感心しながら、ホットプレートの上で美味しそうに焼きあがっていくお好み焼きを見つめて遼がにこりと微笑んだ時、突然不機嫌そうな当麻の声が間に割って入った。
「おい、伸。それは何だ」
「何って? 何?」
くるりと当麻に向き直り、伸が尋ね返した。
「見ての通りお好み焼きだよ、これは。君のリクエスト通りの」
「何言ってんだ。これじゃ、広島風お好み焼きじゃないか! オレがリクエストしたのは関西風だ!」
憮然と言い放つ当麻に冷たい視線を投げて、伸は呆れたように大げさなため息をついた。
「君、別に関西風なんて指定してなかったじゃないか」
「指定しなくったってわかるだろ、それくらい。お好み焼きは関西風の方が断然美味いんだって」
「……そうなのか? 伸」
遼が不思議そうに尋ねると、伸はにこりと笑って首を振った。
「そんな事ないよ、遼。一部の偏屈関西人がそういうこと言ってるのを聞いたことがあるけど、味の好みなんて人それぞれだしね。僕は充分広島風も美味しいと思う。だいたい大阪人はちゃんと食べ比べてもみないで自分達の方が美味しいって言うのどうかしてるよ」
「何だと、伸!」
「当麻、言っておくけど、僕の育った山口は広島の隣にあるんだ。単純にお好み焼きって言って広島風を作ろうと思うのは、当たり前のことだと思うけど?」
「……」
「まあ、君が食べたくないっていうんなら別に構わないから」
吐き捨てるようにそう言って伸はくるりと背を向けると、ちょうどお皿を抱えて居間に戻ってきた秀にあとのことを頼み、洗い物を片づけてしまうからと言って出ていってしまった。
「また、何やらかしたんだ? 当麻。いい加減にしろよ」
秀が呆れた声をあげた。
「何でオレ1人が悪者なんだよ、いつも」
「何を言ってる。今のは全面的にお前が悪い。せっかく作ってくれた料理にケチを付けるとは何事だ。さっさと謝ってこい」
ドンッと征士に背中を押され、当麻は渋々キッチンへと向かった。

 

――――――「何か用? 当麻。僕は別に嫌なもの無理矢理食べさせるつもりはないから」
「何でだよ」
とりつくしまのない伸の言葉を遮って、当麻が食器棚にもたれて腕を組んだ。
「何、怒ってるんだよ」
「別に怒ってなんかないよ。嫌なら無理に食べなくていいって言ってるだけで」
「オレが言ってるのはお好み焼きの事じゃない」
「………」
「帰ってきてからずっとだ。何を怒ってるんだ。お前」
「……」
ようやく作業の手を止めて伸が振り向いた。
「わざと広島風作ったのもオレに対する嫌味だろ。何が気に入らないんだよ」
「何の事を言っているのかわからないね。さっきも言っただろう。僕の住んでた地域では、お好み焼きって言ったら広島風が主流だったんだ。だから……」
「嘘つけ! 夕べお前が見てた料理の本に載ってたのは関西風だったぞ!」
「なっ……何でそんなとこ見てんだよ!!」
思わず真っ赤になって伸は叫んだ。
「べっ……別にどっち作ろうと僕の勝手じゃないか! 今日は広島風を食べたい気分だったんだよ!」
「何だよ気分って!」
「いいじゃないか! 関西風が食べたいならどっかよそへ行って食べてくればいいじゃないか! 女の人でも誘って……」
「……えっ?」
一瞬しまったという顔をして伸が口を閉じた。
「女の人……?」
「……」
「何だよ、それ。伸」
「な……何でもないよ。別に……」
不自然に目をそらした伸を見て、ようやく当麻がハッとなった。
「お前……もしかして……さっきの……」
「関係ないよ。大阪人はナンパが上手いって聞いてたけどホントにそうなんだなあって感心しただけだよ。突然呼び止めて名前まで聞き出して、次に会う約束取り付けて。手慣れたもんだなあって……」
「……」
「僕にはああいうずーずーしい神経ってないもんでね」
「………お前……もしかして、妬いてるのか? オレがあんな美人に声かけたから」
「……!!!」
ボッと伸の顔が朱に染まった。
「ば……馬鹿なこと言うなよ! 何勘違いしてんだよ、君は! 何で僕が君なんか相手にやきもち妬かなきゃいけないんだよ。僕は別に……!」
伸の言葉を遮るように、突然当麻が伸を抱き寄せた。
「と……当麻!?」
「嬉しい。オレ、今、めちゃくちゃ嬉しい」
「離せよ、当麻! 何トチ狂ってるんだよ!!」
「お前がやきもち妬いてくれるなんて思ってもみなかった」
「だから、違うって言ってるだろ! 離せよ!!」
「好きだ。伸」
「………!!」
当麻の腕から逃れようとしていた伸の動きが止まった。
「好きだ」
「……嘘付け」
「嘘じゃない」
「……」
「信じないなら何度でも言ってやるぞ。オレは……」
「いい加減にしろ。当麻。私は伸に謝ってこいとは言ったが、こんな所で昼メロドラマを展開しろなどと言った覚えはないぞ」
「……!!」
突然割り込んできた征士の声に驚いて当麻が力を緩めたのに気付き、伸はすかさず当麻の腕を引きはがした。
「見ろ。遼がビックリしてキッチンに入れず困っているだろうが」
「遼!?」
当麻を押しのけて、伸がキッチンテーブル越しに身を乗り出した。
「あ……あの……オレ、別にソース取りに来ただけだから」
「あ、ああ、ごめん。持ってってなかったんだね。今出すよ」
ぎこちない笑顔を向け、伸が冷蔵庫からお好み焼き用のソースを取り出す。
「あ……ありがと」
やはりぎこちない笑顔でソースを受け取ろうと差しだした遼の手と伸の手が一瞬触れ合った。
「………!」
ピクリと反応した遼の手から受け取り損ねたソースが落ち、床へ転がる。
慌ててソースを拾い上げ、遼は大事そうにソースを抱えたまま、逃げるようにキッチンを飛び出した。
「あ………ちょっと……待ってよ! 遼!」
遼を追いかけてキッチンを出ていった伸の姿を見送って、征士が小さくため息をついた。

 

――――――「遼……あの……」
「……」
居間の手前、廊下の途中で遼がふと足を止めた。
「遼……」
「当麻の声って、よく響くよな」
ポツリと遼が言った。
「廊下の端まで聞こえてた」
「遼……あの……当麻の言ってることなんて……ただ、ふざけてるだけだし……その……ごめん」
すっと遼が視線をあげて伸を見つめた。
「何、謝ってるんだ……伸」
「あ、そうだよね。何言ってんだろう。僕」
困惑した表情で伸が頭を掻いた。
「伸」
「な……何?」
「今度さ、オレがリクエストしたら、また広島風のお好み焼き作ってくれるか?」
「えっ?」
遼の言葉の真意がわからず、伸はきょとんとなって遼を見た。
「なあ、作ってくれるか?」
「え……あ、もちろん。遼のリクエスト最優先で作ってあげるよ」
「うん。なら良い」
「……」
「約束だからな」
にっこりと遼が笑った。その笑顔がほんの少し泣きそうに見えるのは目の錯覚だろうか。
「おーい! 遼! ソースまだか!?」
居間から聞こえてきた秀の声に慌てて振り向き遼はそのまま居間の扉を開けた。
「ごめんごめん。おっ美味そうな匂いだな」
「だろ。早く食おうぜ。みんなもすぐ来るよな」
「ああ。ほら、伸、行こうぜ」
「うん」
居間に入ると、確かに美味しそうな匂いが部屋中に充満していて、伸もようやく顔をほころばせて秀の元へ走り寄って行った。

 

目次へ  次へ