遥かなる場所−闇の中−

 

それは、月さえもまだ昇ってこない漆黒の闇の夜の出来事だった。
あまり人目に触れたくないという紅を気遣って、夜のうちに移動しようと小さな村を通り過ぎ、深い山奥へと禅達が入り込んでいたとき。
草を掻き分けながら進んでいく禅の後ろを歩いていた紅が、突然ふと足を止めた。
「どうした? 紅」
何かを探るように首を巡らせる紅に気付き、禅も足を止めて辺りを見回した。
「何かいるのか? 近くに」
「人が……」
「えっ?」
「誰かが泣いている声が聞こえないか?」
「…………?」
紅にならって耳をすますと確かに誰かのすすり泣く声が禅の耳に聞こえてきた。
「子供……かな?」
高い澄んだ声はかなり幼い子供のように聞こえる。
こんな夜中、灯りひとつない暗い山の中でどうしたのだろう。道にでも迷って帰れなくなったのだろうか。怪我をして動けなくなっているのだろうか。
すすり泣く声はとぎれがちで、今にも消えてなくなりそうだ。
「迷子……かな? だったら、さっき通った村の子かも知れない。探してみるか?」
「ああ」
ガサガサと草を掻き分け、禅は手前にあった大木の枝に手をかけて、よじ登った。
「……駄目だな、。真っ暗で何も見えない。」
禅達の頭上はどんよりと厚い雲で被われており、月明かりどころか星の瞬きさえ見えない。
とにかく声だけを頼りに探すしかないと、枝から飛び降りて禅は耳をすませながらゆっくりと歩きだした。
「紅、足下気を付けろよ」
「大丈夫」
ずっと歩いてきた道を外れて草むらの中に入り込むと、急に足下が危うくなる。
慎重に進んでいるはずなのに、ついつい地面に伸びた木の幹やゴツゴツした石くれに足を取られそうになり、禅は何度も転びそうになった。
「オレよりお前の方が危なっかしいぞ」
地面のぬかるみに足を滑らせかけた禅の腕を引っ張って支えてやり、紅がくすりと笑った。
「…………!!」
滅多に自分から触ってなどこないはずの紅の意外な行動に禅が目を丸くする。
そして、暗闇の所為で気付かなかったが、今まさに触れるほど近くに紅の顔があることに気付き、禅は思わずバッと腕を引っこめた。
カーッと頬が熱くなっていくのが自分でもわかる。
本当に、今が真っ暗闇で良かった。
慌ててくるりと紅に背を向け、禅は大きく足を踏み出した。と、そのとたん。
「うわあぁぁ!」
「禅!?」
踏み出した先にあるはずの地面がなく、禅は勢い余ってそのまま斜面をしりもちをついたまま滑り落ちた。
「禅!!」
「紅! それ以上進むな! 目の前崖になってる!」
「!?」
崖という程ではないが、確かに紅の足の先はほとんど垂直と言って良いほどの急斜面になっている。
慌てて足を引っ込め、紅は地面に手をついて、下を覗き込んだ。
といっても更に真っ暗になっている斜面の先など見えようはずもない。
「禅! 大丈夫か!?」
「……だ……大丈夫」
かなり痛そうな声で返事を返すと、禅はなんとか周りの様子を探ろうと目を凝らして耳をすませた。
「…………?」
先程まで聞こえていたはずのすすり泣きが止まっている。
かわりにすぐ近くで人の気配がした。
「…………オレってかなり運が良いのかも知れない」
独り言のようにそうつぶやき、禅は暗闇に向かってにっこりと微笑みかけた。
「驚かせちゃったね。ごめん」
「…………!!」
人の気配がビクッと身を固くするのがわかった。
「オレは禅。君の泣き声が聞こえたんで、どうしたんだろうって探してたんだけど、もしかして今のオレと同じように足踏み外して此処へ落ちちゃったのかな」
「…………」
「怖がらなくていいから。良かったら君の村まで送ってってあげるよ。この山の麓の村の子なの?」
「…………」
「こんな真っ暗なところで、心細かったろう。もう大丈夫だからね。どっか怪我とかしてない? 痛いところある?」
「…………うん。足が痛いの」
長い沈黙のあと、微かに答えが返ってきた。
思ったとおり、小さな少女のようだ。
「可愛い声だな。こうなると顔がよく見えないのがめちゃくちゃ残念じゃん。君、名前は何て言うの?」
おどけた禅の口調にようやく緊張がとけてきたのか、少女が微かに笑ったのがわかった。
「あたし、雪乃」
「雪乃? お雪ちゃんかあ。じゃあ、お兄ちゃんがおぶってってあげるから、村まで帰ろう」
「うん」
少しずつ少女の声に元気が戻ってきているのがわかり、禅は嬉しそうに表情をほころばせた。
「禅、大丈夫か? 登ってこれるか?」
頭上から心配そうな紅の声が聞こえ、それと同時に一本の布がするすると下りてきて禅の肩に触れた。
「あれ? これ」
「それを伝って登ってこい。今、丈夫そうな木の枝に縛って固定したから」
「…………」
その布は、紅がいつも頭に巻いている白い布だった。
「……ありがと。」
ぎゅっと布を握りしめ、禅は雪乃の腕をとって自分の首にしがみつかせると、急斜面を登りだした。
昼間ならともかく、さすがにこう暗くて足下も何も見えないと、たいした斜面じゃなくても登るのは困難なものだ。
手探りで布を掴み、一歩ずつ身体を上へ押し上げていると、紅がさっと上から腕を差しだし禅の手を取って上まで引き上げてくれた。
「大丈夫か、禅」
「……うん」
「禅?」
「うん、大丈夫。ありがと」
今まで決して人に触れようとしなかった紅。
それなのに、今日、紅は二度も自分の手を取ってくれた。
これは少しずつ紅の心が溶けだしている証拠なのだろうか。
紅が自分に手を差しだしてくれた。
そんな些細なことが禅には嬉しくて嬉しくてたまらなかったのだ。
「どうかしたのか? 禅」
紅が不思議そうに訊く。
こんな時ほど、紅の顔を真っ直ぐ見たいのに、今は闇にかすんで紅がどんな表情をしているかわからない。
ほんの少し残念そうに顔をくしゃっと歪め、禅は背中におぶっていた雪乃をゆっくりと地面に降ろした。
「何でもないよ。それよりこの子、雪乃ちゃんって言うんだけど、足を怪我しちゃったらしいんだ」
「……打ち身だけじゃなくって、何かで切ってるな。血が出てる」
空気に微かに匂う血のにおいを察し、紅が眉をひそめた。
「もう血は止まってるのか? 痛みは?」
すっとしゃがみ込んだ紅に雪乃はビックリして目を丸くした。
「……あの……」
「大丈夫、怖がることはないよ。こいつは紅。オレの仲間だ」
「……仲間? お友達?」
「そう。最初にお雪ちゃんをみつけてくれたのはこいつの方なんだよ」
「あ……ありがと」
恥ずかしそうにそう言って雪乃はうつむいた。
「血は止まってるみたいだけど、念のためこれで縛っておけばいい。禅、化膿止めの薬持ってるだろ。それを出してくれないか」
「了解」
腰に下げた袋の中から、薬草をすり潰した塗り薬を取り出し雪乃の足に塗ってやると、禅は紅が差しだした白い布を受け取って包帯代わりに雪乃の足に巻いた。
白い布。いつも紅が頭に巻いている布だ。
「…………」
ほんの一瞬、禅の心を不安がよぎった。
「あの……さ……」
思わず禅は紅を見上げたが、紅の姿は暗闇に紛れてほとんど見えないに等しかった。
髪の色も何もかも、この暗さでは、わからない。
「……何だ? 禅」
「あ、何でもないよ。じゃあ、行こうか。」
夜の闇。この暗闇が紅を護ってくれますように。
心の中で祈りながら、禅は雪乃を背中におぶって立ち上がった。
「少しズキズキするかもしれないけど、我慢、我慢だからね」
「うん」
「すぐ、お父さんやお母さんの所へ連れて帰ってあげるから」
「うん」
コクリと頷いた雪乃を背中に、二人は山の麓に向かってゆっくりと歩きだした。

 

――――――ぽつりぽつりと人家の灯りが見えるほどの距離まで降りてきた頃、安心したのか雪乃は禅の背中で小さな寝息をたてだした。
真っ暗だった周りの景色も、人家の灯りとようやく覗いてきた月のおかげで少しずつ明るくなってきている。
これで、足下も見えるようになって、随分と歩きやすくなった。
ふと、禅は草むらを掻き分けて少し先を歩いている紅を見て、ほうっと息を呑んだ。
昔、夕日の中で見た紅も素晴らしく綺麗だった事を覚えているが、今の月明かりの下の紅も何と綺麗なのだろう。
少し伸びて肩のあたりで波打っている絹糸のような髪は、月の光に溶けてしまいそうな淡い黄金色だ。自分のような泥の色をした重い髪とは大違いに見える。
紅はまるで天上人のようだと、ふと禅は思った。
「……どうかしたのか?」
じっと自分を見つめている禅の視線に気付き、紅が足を止めた。
「いや、綺麗だなと思って」
「…………」
「何かこの子のおかげで、ずんげえ得した気分だよ、オレ。こんな綺麗なお前を間近で久し振りに見れてさ」
「…………」
ぷいっと無言で背中を向けた紅の耳が僅かに赤く染まっているのがわかった。
足早に歩く紅の歩調に合わせて、黄金の髪が揺れる。
やはり紅は綺麗だなと、改めて禅は思った。
やがて、ほとんど道も平坦になり、はっきりと家の形がわかるほど麓に近づいた時、二人はようやく歩みを止めた。
「家の人とか探しに出てるかなあ。」
「かも知れない。」
「オレ、近くの家に寄って訊いてくるよ。そのままこの子の家に連れてってもらえればいいんだけど」
「ああ」
「じゃあ、すぐに戻ってくるから」
まだ眠っている雪乃を起こさないようにしながら、禅は紅のそばを離れて駆け出した。
走り去っていく禅を見送って、紅はトンッとそばの木にもたれかかると、そっと髪の毛を掻き上げる。
さすがにいつも布で覆っている分、たまにはずすと頭が軽くなったようで気分がいい。
ふわりと耳元をかすめた風に紅がふと笑みをこぼした時、そばの草むらがガサリと動いた。
「…………!?」
とっさに身構えた紅の前に眩しいほどの松明が掲げられる。
「……あ……!」
「誰だ! きさま!!」
大きな松明を片手に掲げ持って草むらから姿を現したのは、紅より少し背の高い、精悍な顔つきをした少年だった。
「何者だ! お前! この近くの奴じゃ……」
言いかけて少年は、ギクリとなって言葉を詰まらせた。
「紅!?」
背後に見えた明るい松明の明かりと、少年の鋭い声に、何かあったと察し、駆け戻って来た禅も思わず足を止めてゴクリと唾を飲み込んだ。
「………………!!」
松明の明かりに照らされた紅の髪は、まるで黄金の炎のようだった。
少年も紅の異様な髪の色に目が離せない様子で、じっと睨みつけるように紅を見つめている。
「……く……紅……」
「お前……何者だ……? ……人間か……?」
どう見ても日本人には見えない髪の色。黄金に輝く髪と、一筋混じったの血のような赤い髪。薄紫の瞳。透き通るような白い肌。
少年は不気味なものでも見るような目つきで、ジリッとうしろへ後ずさった。
するとその時、禅の背中で目を覚ました雪乃が少年を見つけ、目を輝かせた。
「お兄ちゃん!?」
「雪!?」
少年が弾かれたように振り返り、禅の背中の雪乃を見た。
「雪乃! お前無事だったんだな!!」
「お兄ちゃん!!」
「雪乃!!」
松明を放り投げ、少年は禅のもとに駆け寄ると、奪い取るように雪乃の身体を抱き上げた。
「雪! ……雪乃……良かった」
ギュッと雪乃を抱きしめたまま少年がキッとなって紅を睨みつけた。
「きさまか! 雪をさらったのは!!」
「なっ……!?」
「この化け物!!」
「…………!!」
「何言ってるんだ!紅は……!」
禅の止めるのも聞かず、少年は紅に向かって石を投げつけた。
ヒュンッと飛んだ石つぶてが紅の頬をかすめる。
「止めろ!! 紅はその子をさらったりなんかしてない! 紅はその子を助けて此処まで連れてきてやったんだぞ! それを……」
「でたらめなことを言うな! 化け物が!!」
「嘘じゃない! 紅は!!」
ガツッと少年の投げた石が紅に当たる。
紅は飛んでくる石を避けようともせず、ただ凍り付いたようにその場に立ち尽くしていた。
「止めろよ!! お雪ちゃん! 君も言ってくれよ! 紅は悪い奴じゃないって!!」
「…………」
「悪い奴じゃないって、本当の事言ってくれよ!!」
「……あ……」
そこで初めて雪乃は顔をあげて紅の方に顔を向けた。
「お兄ちゃん……あの……」
言いかけた雪乃の言葉が途切れた。
紅はまだ呆然とした表情のまま、何処か別の所を見ている。
「……あ……」
紅の足下に転がった松明の明かり。
真っ赤な炎と相まっていっそう輝きを増した黄金色の髪。
暗闇の中では気付かなかった。
紅がこんな姿をしていたなどとは。
炎に照らされて薄紫の瞳が異様な輝きを放つ。血管の筋まで浮き上がっているのではないかと思えるほどの透き通った白い肌。眩しい黄金の髪。血の一房。
「き……きゃーーーー!!!」
「……!?」
「いやーー! お兄ちゃん!! 怖い!!!」
初めて目の当たりにした明るい光の中での紅の姿に怯え、雪乃は少年にしがみついて泣き出した。
「さっさと何処かへ消えろ!! この化け物!!」
再び少年が石を投げつけた。
必死で雪乃を庇うように後ろへ抱え、少年は刺すような視線を紅に向ける。
「二度とここへ現れるな! お雪に何かしたら、お前を殺してやる!!」
紅の額に当たって石つぶてが割れた。
細い糸のような赤い血が紅の額から鼻筋をとおり顎から地面へと落ちていく。
「紅!!」
紅は硬直したまま血を拭うことすら出来ないでいる。
「もう止めろ! 止めろよ!!」
少年の前に立ちはだかり、禅は紅を庇うように両手を広げた。
少年は禅の事に見向きもしないまま、最後の石を投げつけた後、ペッと地面に唾を吐いて雪乃を抱えたまま立ち上がった。
「何処かへ消えろ。鬼。これ以上麓へ近づいてきたら村中の皆をたたき起こして、お前を追い立ててやる」
吐き捨てるようにそう言って、少年は麓へ向かって走り出した。
禅と紅はしばらくの間、身動き一つ出来ないままでじっと走り去る少年の後ろ姿を見つめていた。
「…………」
あの少年が悪いわけではない。
あの少年は大切な妹を得体の知れない人間から護ろうとしただけなのだ。
雪乃も、ただ怯えただけなのだ。
初めて見る見たことのない異様な色合いの紅の姿に怯えただけなのだ。
そう。
彼等が悪いわけではない。
わかっている。
彼等が悪いわけではないのに。
でも、このどうしようもない憤りや、堪えきれない怒りは何処へ向ければいいのだろう。
真っ白になるほど力を込めて拳を握りしめ、禅は紅を見つめた。
美しいと思うには、あまりにも異様に見えるのだろうか。
輝く黄金色の髪も、薄紫の瞳も、透き通るような白い肌も。
護ってやりたいのに。
誰よりも綺麗で誰よりも大切な、誰よりも愛おしいこの少年を。
自分の手で護ってやりたいのに。
どうして自分はこんなにも力が足りないのだろう。
どうして自分はこんなにも無力なのだろう。
どうして自分は。
きつく唇を噛みしめて禅はじっと紅を見つめた。
長い間、じっと微動だにせず、禅は紅を見つめていた。
「……もう、離れないから」
やがて、ささやくように禅は言った。
「絶対もう二度とお前のそばを離れたりしないから」
「…………」
「そばにいるから」
触れることすらためらわれる程の、大切な仲間。
やっとみつけた大切な大切な大切な仲間。
「紅は綺麗だ。誰が何と言おうが、オレにとってはお前が誰よりも一番綺麗だ」
「…………」
「綺麗なんだ」
「……そんなことはない。」
「…………?」
「……オレにとっては、禅のほうがずっと綺麗だ」
そっと額の血を拭いながら紅がようやく禅の方に顔を向けた。
「禅はいつも前を向いて真っ直ぐに生きている。それがオレにはとても眩しく見える」
「……紅……」
「大丈夫。お前がそばにいてくれるだけでオレは充分倖せだ。これ以上何か望んだら罰があたる」
そう言って紅が微かに笑った。
その時、ようやく夜が明けたのか、ゆっくりと昇ってきた朝日が紅の顔を照らしだした。
柔らかく揺れる黄金色の絹糸の髪。何処までも澄んだ瞳。
紅は本当に透き通るように綺麗だった。
この世のものとは思えないほど綺麗に見えた。
「行こう」
そうつぶやいた紅に促され、禅はやっと歩き始めた。
そして、二人はもう二度と後ろを振り返ろうとはしなかった。

FIN.      

2002.12 脱稿 ・ 2003.1.5 改訂    

 

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