遥かなる場所−傷痕−

その男は、やけに下卑た舐めまわすような目をして紅の汚れた白い肌をみつめた。
真っ昼間から酒でも飲んでいるのかと疑いたくなるような赤い顔と妙に歪んだ口元。
ただ、その目付きだけがやけに鋭く射すような光を放っていた。
「行こう、紅」
何だかとてつもなく嫌な感じがして、禅はぱっと紅の着物の袖を引っ張った。
人里離れた森の中。
近くの村までは歩いて3日はかかるだろうこんな場所に居るのは、きっとまともな奴じゃない。
禅は周りに男の仲間が潜んでいないか気配を探りながら、もう一度紅の着物の袖を引っ張ろうと手を伸ばした。
と、ちょうどその時わずかに紅が後ろに下がり、伸ばした禅の指に紅の腕が直に触る。
「……!!」
とたんにビクリと身体を硬直させ、紅が触れた腕を引っ込めた。
「あ……ごめん…………」
しまったという顔をして、禅はすっと紅のそばから身を引く。
青ざめた顔をして、紅がきつく唇を噛みしめた。

出逢った当初から考えると、紅は随分と変わったと禅は思う。
口数も多くなり、自分から話しかけてくれるようにもなった。笑顔も増えた。
なのに、それでも紅は相変わらず頭にきつく布を巻き、泥に汚れた顔をして、そして、決して誰にも直に身体に触れさせようとはしなかった。
握手することすら、紅は頑なに拒んでいたのだ。
何かの拍子に手が触れると、それだけで紅は過剰な拒絶反応を示した。
大丈夫、と言いながら、唇を噛みしめて震え続ける紅の姿はとても痛々しくて、禅はその度に酷く後悔をしたのだ。
何もしてやれない。
本当に、そういう時の紅に対して、禅は何もしてやることが出来ない。
昔、自分がとても寒かった時、祖父は禅を抱きしめて暖めてくれた。
禅が怪我をした時は、血の滲む傷口に薬を塗り、痛みを和らげてくれた。
辛いときも、哀しいときも、祖父の大きな暖かい手が、禅の救いだった。
あの手が触れてくれただけで心が穏やかになった。
なのに。
目の前で震えている紅に、禅は触れてやることができない。
きつくきつく唇を噛みしめ、独りで耐えている紅を前に、禅はいつもなすすべなく立ちすくむしかなかった。

「紅? ……そうか、紅だ。思い出したぞ。お前、さっきからどっかで見た顔だと思ってたんだ」
「…………!?」
男がにやりと気味の悪い笑顔を作った。とたんに、紅の顔からさっと血の気が引いていく。
「久しぶりだな、紅」
「…………」
「さすがに相変わらず美人じゃないか。え?」
「……知り合い……なのか?」
驚きに目を見開いて禅が紅を見ると、紅は真っ青な顔をして、2・3歩後ろに後ずさった。
どう贔屓目に見ても、逢って懐かしがるような関係の知り合いではないらしい。
つっと視線を逸らした紅を見て、男がやれやれと立ち上がった。
「何だ、その態度は。昔受けた恩もすっかり忘れたって顔しやがって」
「…………」
「つれないな、紅」
紅の顔色はすでに紙のように白い。
禅は思わず、紅を庇うように男の前に立ちふさがった。
「……何だ? お前は」
初めて禅の存在に気付いたかのように、男がじろりと禅を見下ろした。
「紅とどういう知り合いか知らないけど、こいつはもう、あんたとは話なんかしたくないみたいだ。そこ、どいてくれよ。オレ達は行くところがあるんだから」
「行くところ? 何だお前、こいつと一緒に旅でもしてるってのか?」
「そうだよ。悪いか」
「……はっ……こいつはいいや」
突然男が腹を抱えて笑い出した。
「こんな鬼っ子と一緒にいてもろくな事ないぞ」
「…………!!」
紅がビクリと顔をあげる。
「紅は鬼じゃない!! お前らみたいな奴が、そうやって紅を追いつめるから」
禅が声を荒げて叫ぶのを、まるで意に介さない様子で、男はいきなり禅を押しのけ、紅の手首を掴みあげた。
「…………!!!」
「何するんだ!!」
にやりと舌なめずりをしながら、男はきつく紅の腕を掴んだまま離そうとしない。
「鬼じゃないって言うなら、人間か? こいつが」
「…………」
「こんな白い肌、女にだっていないぞ。それに、この目の色。こいつは人間の目じゃない。魔物の目だ」
必死で男の手を振り払おうとする紅の身体をドンと近くの木に押しつけ、男は更に下卑た笑いを浮かべた。
「なあ、紅」
さっと顔をそらす紅の顎を強い力で掴み、無理矢理自分のほうへ向けさせると、男はクックッと喉の奥で笑いながら、紅の薄紫の瞳を見下ろした。
「相変わらず気味の悪い目だぜ」
「…………」
「そんなつれなくするなよ。オレとお前の仲じゃないか。まさか、あの事を忘れたわけじゃないだろう、紅」
ぞわりと背筋がそそけだった。
男の目つきが急激に淫靡な光を放ち出す。
男に手首を掴まれたまま逃げ場を失った紅は、必死で男と視線を合わすまいと目をそらしていた。
「……貴様……紅に何をしたんだ」
禅はきつく拳を握りしめて、男の大きな背中を睨みつけた。
チリチリと髪の毛が逆立っていくのがわかる。
「オレは、こいつを助けてやったんだよ」
「…………」
「今にも飢え死にしそうなこいつに食い物をめぐんでやったんだ」
紅が苦しげな目で男をちらりと見上げた。
「なあ、そうだろ、紅」
「…………」
「お前が言い出したんだぞ。何でもするからって。何でもするから、代わりにその食い物をくれって」
「……何でも……?」
禅がはっとして紅を見た。
紅はいたたまれない様子で、禅から視線をそらせる。
男がにやりと笑いながら、すっと紅の首筋を撫で上げた。
ビクンと紅の身体が跳ね上がる。
「ま……まさか……」
「…………」
「……まさか……そんな…………」
「…………」
「紅……!!」
禅の叫びに、紅が小さく息を呑む。
「お前……」
他人が身体に触れることを極端に嫌った紅。
なめらかな白い肌。吸い込まれるような薄紫の瞳。
泥さえ落とせば、少女かと見間違う程の整った顔立ち。
「そんな……」
「なんだ、お前、知らなかったのか?」
可笑しそうに男が笑い出した。
「可哀相に。こいつの極上の密の味を知らないなんてな」
「…………!!」
「禅!!」

次の瞬間、禅はダッと地面を蹴って、男の身体に体当たりした。
「…………!?」
もんどりうって倒れた男に引きずられるように、紅も地面へと倒れ込む。
「……この……クソ餓鬼!」
怒りを露わにして、男が地面に手を付いたまま顔をあげた。
僅かにゆるんだ手をふりほどいて、さっと紅が立ち上がる。
「…………!!」
即座に伸ばしてきた男の腕が紅を捕まえようとするより一瞬早く、禅の手が男の腕をはたき落とした。
「逃げろ!! 紅!!」
叫ぶと、禅はまだ地面に這いつくばったままの男の顔面を力任せに殴りつけた。
「禅!!」
「貴様の所為で……貴様の所為で、紅が……!!!」
「禅!!」
再び腕を振り上げた禅の顔に今度は男の鉄拳が飛ぶ。
「…………!!」
「餓鬼の分際で!!」
衝撃に3m程も吹っ飛んだ禅は、後ろの大木にしたたかに背中を打ち付けた。
「……くっ……!」
一瞬、息が詰まって、禅は苦しげに喉を押さえ、地面に膝をついた。
切れた唇から血が滴り落ちる。
「……許さない……」
怒りに身体を震わせたまま、禅が立ち上がった。
「貴様だけは、絶対に許さない……」
「…………」
再び禅が地面を蹴って拳を振り上げながら男に向かっていった。
「……このっ……!!」
とっさに構えた男の腕の下をかいくぐって禅は男の懐に入り込み、男の腹を思いっきり蹴り上げた。
「ぐっ……!!」
思いがけない攻撃に男が腹を押さえてうずくまる。
禅の全身から怒りの炎が立ち上がって来るのが見えた。
「……禅……」
「……この餓鬼……よくも……」
「……!!!」
続けて2発目の蹴りを入れようと振り上げられた禅の足を、いきなり男の太い腕がつかみ取った。
「……なっ……!?」
次いで、ものすごい力で一気に腕を引き、男は禅を地面へと引きずり倒した。
「いい気になるんじゃねえ、クソ餓鬼が!!!」
男の拳が5・6発立て続けに禅の顔へと飛ぶ。
「禅!!!」
紅が叫びながら、男の腕にしがみついた。
「やめろ!!」
「紅!!」
ぶんっと腕を振り、男がしがみついた紅を振り払った。
はじき飛ばされた紅の周りで、派手に土煙があがる。
男はじろりと紅を睨み付けると、いきなり紅の着物を掴み、首を締め上げた。
「…………!!」
紅の顔が苦痛に歪む。
「くっ……」
「……紅を……離せ……」
滴り落ちる血を拭おうともせず、禅が立ち上がった。
男は歯を食いしばる紅の顔を見て、下卑た笑いを浮かべる。
「良い表情だな、紅。その顔にそそられるんだよ、オレは」
「…………!!」
必死で男の腕を振りほどこうともがいていた紅の動きが一瞬止まった。
すると、男が舌なめずりをしながら、ゆっくりと紅に顔を近づけていった。
「……触るな……」
「………………」
「汚い手で、紅に触るな!!!!」
悲痛な叫び声をあげて、禅がおもむろに背中に背負っていた剣を鞘から抜きさり、男に飛びかかった。
「…………!?」
子供が持つには不釣り合いな程の大刀を軽々と振り回し、禅は紅の首を締め上げている男の腕を力任せに切り落とした。
「……なっ……!!!」
まるでスローモーションのように、男の腕が肘から切断され、真っ赤な血があたりに飛び散った。
「禅!!」
紅の白い肌に、男の血がぱっと降りかかる。
男は、いったい何が起こったのかわからないといった表情で、地面にごろんと転がった己の無骨な腕を見つめた。
「……う……うわー!!!」
焼け付くような痛みに、初めて男の口から悲鳴が漏れる。
切り取られた腕からは、まだドクドクと血が溢れ続けていた。
やがて、獣のような奇声を発しながら、男が禅に飛びかかってきた。
「禅!!」
怒りに燃えた目で、禅は剣を上段に振りかぶる。
「禅……待て!!」
勢いに任せて突進してくる男の身体を見事に避け、禅が男の顔面めがけて剣を振り下ろした。
「禅! 待て! 殺すな!!!」
「…………!!」
僅かに男の頬をかすめて、剣がズザッと地面に突き刺さった。
「…………」
地面に倒れたまま、禅を見上げる男の目が恐怖に見開かれる。
荒い息を吐きながら、ようやく禅の動きが止まり、少しずつ怒りの炎が影を潜めていった。
「………………」
紅は禅のそばに駆け寄ると、代わりに地面に突き刺さった剣を抜き取り、蔑むような視線を男へと向けた。
「こんな奴のために、禅が人殺しになる必要はない」
「…………」
男は地面に倒れたまま、ものすごい目つきで紅を睨み付けている。
「紅。ここでオレを殺さなかった事、必ず後悔させてやるぞ」
血を吐くような声で、男が言った。
紅は無言で男を見下ろし、そのまま背中を向けて歩き出した。
「紅に何かしたら、今度こそオレは迷うことなくお前を殺す。覚えておけ」
そう言って背中の鞘に剣を収め、禅も紅の後を追って駆けだした。
人里離れた森の中。
独り取り残された男が、腕の痛みに再び苦痛の声を漏らした。

 

――――――小川の水に浸した布で、擦りむいた腕や頬の傷を拭うと、禅は先程からずっと黙ったままうずくまっている紅のそばに腰を降ろした。
「紅……ほら、せめて血くらい拭けよ」
頬に飛んだ男の血を一向に拭おうとしない紅を見て、禅が遠慮がちに声をかける。
本当は自分の手で拭いてやりたいのだが、紅の青ざめた顔色を見るとそれも出来ず、禅はおとなしく少し離れてじっと紅の様子を窺った。
「せっかく綺麗なのに、あんな奴の血で汚れたままにしておくことないよ」
僅かに水の滴る布を、禅は紅の目の前に差し出す。
「オレは綺麗なんかじゃない」
ちらりと禅を見て、ようやく紅が口を開いた。
「お前も解っただろう。オレは少しも綺麗じゃない。汚れている」
「…………」
「汚れているんだ」
そう言って、紅はきつく自分の膝を抱え込んだ。
ザワッと頭上で木の葉が鳴る。
「紅…………」
「あの頃……母に捨てられ、村を追い出されたオレは、ずっと独りで山の中を彷徨っていた。食べるものなど何もない。時折見つけた木の実なんかを食べたが、そんなもの何の足しにもならない。何日も何日も、空きっ腹を抱えて歩いてたんだ。……そんな時、オレの目の前に突然あの男が現れた」
「…………」
「オレは……」
「紅……」
「オレは……空腹で死にそうだった」
「…………」
「死にそうだったんだ。……から……だから……食べ物と引き替えにあの男と……」
「…………」
「あの男と……寝たんだ……」

“なんだ、お前、よくみると結構綺麗な顔してるじゃないか”
“いや、結構どころじゃないぞ。こんな極上の肌、生娘にだっていない”
“さあ、来いよ。オレの言うこと、何でもきくって言っただろう”
“欲しいんだろう、食い物が”
“さあ、こっちに来いよ。紅。ほら、可愛がってやるから”

「……何で、あの時、オレは死ぬ方を選ばなかったんだろう……」
「…………」
「あの時、死んでいれば良かった」
「……紅……」
紅を見つめる禅の瞳から、ふいに涙が溢れ落ちた。
次々と溢れ続ける涙は留まることを知らず、とうとう禅はしゃくり上げながらも泣き続けた。
「禅……」
そっと紅が禅の名を呼んだ。
「どうしてお前が泣くんだ」
「わかんないよ……わかんないけど……」
言いながらも禅の瞳からは涙が溢れ続けている。
「…………」
しばらくの間、じっとそんな禅を見つめていた紅が、やがておずおずと手を差し延べ、そっと禅の頬に触れた。
「……!!」
ビクリと禅が顔をあげる。
「泣かないでくれ、禅。お前が泣いていると、オレはどうしていいか解らなくなる」
「………………」
頬に触れた紅の手が微かに震えているのに気付き、禅は思わずすっと身を引いた。
「……む……無理しなくていいよ、紅。人に触れるの嫌だろ」
「…………」
ゴシゴシと涙を拭き、禅が真っ赤な目をして必死で笑顔を作った。
「オレ、大丈夫だから」
言った先から、また新たな涙が浮かぶのを見て、紅は再び腕を伸ばし、今度こそしっかりと禅の頬を両手で包み込んだ。
「無理などしていない」
「…………」
「禅だけは、特別だ」
「……紅……」
「今まで、オレのために泣いてくれた者など誰もいなかった」
「…………」
「禅だけは、特別なんだ」

白い、白い肌を泥で汚し、輝くような黄金色の髪を布で包み、目立たないように隠して。
それでも紅はこんなにまで綺麗だ。
スミレの花のような紅の瞳を見つめて、禅がぽつりと言った。
「やっぱり、お前、綺麗だよ、紅」
「…………」
「今まで逢った誰よりも綺麗だよ」
「…………」
遠慮がちに手を伸ばし、禅はそっと紅の頬に飛んだ血を拭ってやった。
「紅」
「…………」
「倖せになろうな。少しずつでいいから」
「…………!」
紅が驚いて禅を見ると、禅は泣きはらした目でにこりと笑った。
「今まで辛かった分、これから先、お前が1回でも多く笑えるように、オレ、楽しいこといっぱい見つけてやるから、だから、少しずつでいい、倖せになろうな」
「禅……」
「1回笑うと、1つ倖せが増えていくんだって、じっちゃんが言ってた。だから、オレ、お前がいっぱい笑えるようにしてやる。きっと。約束するから」
「…………」
紅が微かに笑った。
ようやく現れた紅の笑顔を見て、禅の顔からも自然と笑みがこぼれた。
「紅」
「…………?」
「オレ、今すごくお前のこと抱きしめてやりたいんだけど、いいかな?」
「…………!!」
僅かに目を見開いて禅を見た紅は、次いでコクリと小さく頷いた。
「……紅……」
ゆっくりと腕を伸ばし、禅が紅の身体を引き寄せる。
一瞬身を固くした紅を気遣って、禅が腕を緩めると、紅は無言で禅の胸に頭をのせてきた。
「…………」
そっとそっと、紅の背中に腕をまわし、禅はしっかりと紅の身体を抱きしめる。
初めて触れた紅の身体は、とても暖かくて柔らかかった。
「……あっ……」
禅の腕の中で紅が小さく声をあげる。
「何?」
「心臓の音が聞こえる。」
禅の胸に耳を当て、紅が静かに瞳を閉じた。
トクン……トクン……トクン……
規則正しい禅の心臓の音が、紅の耳に心地よく届く。
「暖かいだろ、こうしてると」
禅が小さな声で囁くと、紅は目を閉じたまま頷いた。
「暖かいんだよ。人の肌って本当は」
「…………」

辛いことばかりだった紅の過去。
その記憶を消すことなど出来ないが、それでも、これから先少しでも紅が楽に生きられるように。
少なくとも死ぬことを望んだりせずに生きられるように。
その為に。

禅が僅かに紅を抱きしめる腕に力を込めると、紅がふとその薄紫の瞳を開け、倖せそうに微笑んだ。
トクン。
またひとつ、禅の心臓の音が優しく紅の耳に届いた。

FIN.      

2000.12 脱稿 ・ 2001.5.26 改訂    

 

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