悪しき者達 (1)

物心ついた頃、覚えている最初の感情はどうしようもない程の空腹感。
腹が減って腹が減って、市場の八百屋から果物をひとつかっぱらってしたたかに殴られた。

あの頃から、ずっとずっと飢え続けている。
すべてに。

 

「お前、今そこの店先にあったリンゴ、かっぱらったろう」
口元に冷笑を浮かべながらそう言ってきた、自分よりふたまわりも大きな男を見上げ、亜門は心の中で舌打ちをした。
「あの店はオレの知り合いの店なんだ。おとなしく盗った物返せば一発殴るだけで見逃してやるぜ」
「兄貴の一発なんかまともに食らったら、こんな細っこいのすぐあの世にいっちまうんじゃないか?」
「そりゃそうだ」
まわりでどっと笑いがおこる。
3…4…5…。
ゲラゲラと胸くその悪くなる笑い声をあげている男達の数を横目で数えながら、亜門は脱出口はないかと、気付かれないようにすっと視線を巡らせた。
市場のある商店街から少しはずれた裏通りの路地裏は、前も横も普通に考えれば飛び越えられる高さではない程の高い塀が取り囲んでおり、唯一ある後ろの道には、行く手を塞ぐようにガタイのいい男達が数人立ちはだかっている。
どう考えても亜門にとってこの状況は希望の光ひとつ見いだせる状態ではなかった。
「…………」
「おら、観念しろよ。坊や」
男の手がぬっと伸び、亜門の腕を捕まえようとする。
小さく舌打ちをしながら後ずさると、真後ろに立っていた別の男にぶつかった。
「……!!」
「てめえみたいな浮浪児の餓鬼が徘徊するから、この街の空気が汚れるんだよ」
ボキボキと指を鳴らして、先程、兄貴と呼ばれていた大柄な男がじりっと亜門に近づいて来た。
「……!!」
ブンと風を切って男の拳が振り下ろされる。
とっさに身体をひねり、亜門が紙一重のところで拳をよけると、男がホウっと感嘆の声をもらした。
「なかなか良い反射神経してるじゃねえか」
「……………」
「だが、次はどうかな?」
にやりと男が唇の端をあげる。
すると、後ろに立っていた男がガシッと亜門の肩を掴んだ。
「………!!」
亜門の顔にさっと緊張感が走る。
冗談じゃない。これじゃ避けられない。
おもわず顔をそむけようとした亜門の目の端に、その時、するりと一本のロープのような物が塀の上から垂れてくるのが見えた。
「……!?」
はっとして顔をあげると、高い塀の上から、誰かが鋭い目つきで亜門を見下ろしている。
次の瞬間、亜門は後ろに立っていた男のみぞおちにおもいっきり肘鉄を入れ、その勢いで目の前の大男に身体ごと体当たりをした。
「……なっ!?」
腹を押さえてうずくまる男と、突然の反撃にふいをつかれてしりもちをついた男を飛び越え、亜門は塀の上から垂れ下がっているロープをガシッと掴んだ。
とたんにかなりの勢いでロープが塀の上へ引き上げられる。
塀の上にいた奴が、亜門がロープを掴んだのを確認したとたん、そのままロープを手に反対側へ飛び降りたのだ。
亜門はロープの反動を利用して器用に塀の上に身を躍らせると、呆気にとられている男達を尻目にトンっと塀の向こう側へ飛び降りた。
「…このクソ餓鬼!!」
塀の向こう側から男達の悔しそうな怒鳴り声が聞こえたが、一向に気にせず、亜門はそのまま後ろも見ずに駆けだした。

迷路のような路地裏を抜け、亜門はようやく町外れの海岸へとたどり着き、足を止めた。
「傑作だ。まさか無傷のまま逃げられるとは思ってなかったよ。2…3発は食らう覚悟してたのに。なあ、お前も……」
成り行き上、隣を一緒に走っていた先程のロープの持ち主に顔を向けた亜門は、ふと言葉を途切らせて、まじまじと相手の顔を見つめた。
年の頃は自分と同じくらいかもう少し下か、あどけないともいえるまだ幼さの残る小さな顔と大きな瞳。
淡い色の癖のある髪は肩の辺りでくるくると跳ね、どう見てもそれは女の子の顔立ちだった。
「……お前……女の子?」
「………!!!」
次の瞬間、言葉の代わりに拳が亜門の顔面に飛んできた。
「……痛っ…痛てえなあ。何すんだよ」
「助けてもらった礼がそれか?貴様、いい性格してるな」
「なんだと!?」
「オレの何処が女に見えるってんだ。目、腐ってんじゃねえか?」
「………!」
言われて亜門はもう一度目の前の相手の顔を覗き込んだ。
泥と痣とみみず腫れと、腕にも足にも数え切れない程の傷跡があるやせ細った身体で目の前の少年はギリっと口を真一文字に結んでいる。
確かにその表情からは少女特有の柔らかい雰囲気は感じられない。
代わりに刺すような鋭い目つきがやけに印象的だった。
「……わかった……訂正するよ。確かに女じゃなさそうだ」
じろりと亜門を一瞥し、少年はシュルっと音をたてて持っていたロープを丸めた。
「あ、それ、ロープかと思ったら鞭だったんだ」
先端の鋭く尖ったそれは伸縮自在の長い鞭だった。
「いい武器持ってるな、お前」
「……………」
ちらりと亜門を見て、少年は感心なさそうに丸めた鞭を腰のベルトにしまった。
このしなやかな鞭は、少年の唯一の相棒で、きっと彼は何度もこの鞭で危機を乗り越えてきたのだろう。
「……………」
使い込まれた黒い鞭を見て、感心したようにひとつ息をはいた亜門の目の前に、すっと少年が手を差し出した。
「………?」
「何、変な顔してんだよ。早く寄越せよ」
「何を?」
意味が解らず、きょとんとした顔をした亜門を見て、少年が大きくため息をついた。
「お前なあ…ホント脳味噌腐ってんのか?」
「………?」
「盗ったもの半分寄越せよ。見返りもなしに助けてもらったとでも思ってるのか?」
「あ…ああ」
少年が更にぐいっと亜門のほうへ手を突き出す。
懐に隠してあったリンゴをひとつ取り出し、亜門はしぶしぶ少年に手渡した。
「ほらよ。これでいいのか?」
「………リンゴ1個か。しけてんな」
「やなら返せよ。何もお前の為に盗ったんじゃねえんだから」
「けっ…!」
大きな赤いリンゴを受け取り、少年はそのままくるりと踵を返すと走りだす。
「あ!!おい!!お前……」
あっという間に小さくなっていく少年の背中を見送って、亜門は呆れたようにため息をついた。
「ま…そんなもんか」
恐らく、あの少年も自分と同じなのだ。
誰のことも信用せず、たった独りでひたすら飢えを凌ぐために、ただそれだけのために生きてる。
明日の楽しみも生きる希望もなく、ただ飢えと戦い続けて、ボロボロになって生きてる。
ガリっと手に持ったリンゴをかじりながら、亜門は砂浜に腰を降ろした。
3日ぶりのまともな食い物。
芯のところまできれいに食べ尽くしてから、亜門はごろりと砂浜に寝転がる。
リンゴ1つじゃ、少しも飢えはなくならない。
きっと、もう、何をいくら食っても、2度と自分は満腹になどならないだろう。
疲れたように亜門は瞳を閉じた。

 

――――――「………?」
町外れの崩れかけた廃屋のそばで、亜門はふと立ち止まった。
「何だ…?」
建物の陰に隠れるようにして数人の男達が一人の少年を取り囲んでいるのが見える。
「…………」
ちらりとだけその集団へ視線を投げた亜門は、さほど興味なさそうにすぐに視線をそらせた。
別に他人のいざこざに関わって、自分が危ない目に遭うつもりなどない。
自分の身を護ることで精一杯なのに、わざわざ火の中に飛び込んで火傷するなど以ての外だ。
そのまま無視して通り過ぎようと歩きだした亜門は、次の瞬間はっとしてもう一度その集団のほうを振り返った。
「……あいつ……?」
ガタイの良い男達に囲まれた小柄な少年。
それは、いつだったか亜門を助けてくれた鞭使いの少年だった。
相変わらずの細い身体。
少し以前より髪が伸びて、遠目にはやはり少女のように見える。
「……何ドジ踏んでんだ。バカじゃねえのか………」
背を向け、再び歩き出そうとした亜門は、何故か足を止め、もう一度、少年のほうを振り返った。
「……………」
何を考えている。無視して行けばいいじゃないか。余計な事に首突っ込んで怪我でもしたらどうするんだ。
心が警告を発する。
「……………」
必死で立ち去れと、心が叫んでいるのに、亜門の足は少しも動こうとしなかった。
「……ちっ……」
気付かれないように向かいの建物の陰に潜み、亜門は遠目に少年の様子を窺った。
「くそったれ……なんでオレが…の為に……」
名前を口に出そうとして亜門ははっとした。
そう言えば自分はあいつの名前さえ知らなかったのだ。
「……あっ!!」
その時、一人の男が少年の横っ面をはり倒した。
軽々と吹っ飛んだ少年の腕を掴み、別の男が更に少年を殴りつける。
切れ切れに男達が少年を罵る声が聞こえてきた。
「このクソ餓鬼!」
「誰のお陰でお前みたいな奴が此処で生きていけてると思ってんだ」
「公衆便所のくせにでけえ面すんじゃねえよ」
「二度と商売出来ねえ身体にしてやろうか?」
唇をギュッと噛みしめ、悲鳴一つもらさない少年を見て、おもわず亜門は建物の陰から飛びだした。
「あいつ…何で反撃しないんだ?武器はどうした。あの鞭は…」
少年の腰にくくりつけられているはずの鞭が見あたらない事に気付き、亜門はぐるりと辺りを見回した。
「………!」
逃げる途中で落としたのか、男連中が取り上げて捨てたのか、少年の鞭が路地裏のドラム缶のそばに転がっていた。
「……あ…あった」
ぱっと鞭を掴み、亜門はまだ殴られ続けている少年を振り返った。
男達は少年を殴ることに夢中で、誰も亜門に気付いていない。
「……………」
なんとか、この鞭をあの少年に手渡すことが出来たら。
そうすれば、きっとあの少年の事だ。この状況を打破するくらい出来るだろう。
あいつは、なんという名前なのだろう。
名を呼んで、この鞭を手渡して、そうしたら。
何故自分は、あの少年の名前さえ呼んでやれないのだろう。
こんな事なら、最初に逢った日、名前を聞いておけばよかった。
名前を呼べない。
そんな些細なことが悔しくて、亜門はギリっと唇を噛んだ。
「…………」
すーっと亜門のまわりで陽炎が揺れる。
おい!気付け。
お前の鞭は此処にある。此処にあるんだ。
早く気付けよ。バカ野郎。
おい!!!
「す……」
亜門の思いが通じたのか、少年がはっとして顔をあげた。
「朱雀!!お前の鞭だ!受け取れ!!!」
「…………!?」
その瞬間、亜門の手の中から鞭が消えた。
「…………!?」
そして、次の瞬間、その鞭は少年の手の中に現れた。
「なっ……なんだ!?」
突然少年の手の中に現れた鞭を見て、まわりの男達が目を丸くする。
「………!!」
その一瞬の隙を見逃すはずもなく、ビシッと派手な音をたてて男達めがけて少年の鞭がうなりをあげた。
先端に鋭い硝子の欠片を埋め込んだ特製の鞭は、計ったように男達の眼や首筋の急所をかすめていく。
とたんに噴水のように吹き出す血のシャワー。
目を押さえたまま獣のような呻き声をあげて、一人の男が少年の足下を転げ回った。
「すげえ……」
あまりにも華麗な鞭さばきに、亜門は我を忘れて見入っていた。
ひとつひとつの動きにまったく無駄というものがない。
的確に要所要所のみを狙う少年の動き。
地面に広がっていく血の海を飛び越え、少年が亜門のいる方向に向かって駆けだした。
「…早く来い!!」
はっと我に返って、亜門は手を差し出し、少年の腕をつかみ取った。
一瞬バランスを崩してよろけた少年の身体を支え、亜門も走りだす。
「覚えてろ!!クソ餓鬼!!!」
男達の罵声が背中越しに響いてきた。
亜門は少年の腕を掴む手に力を込めた。

 

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