笑わない天使 (9)

それは幸せな予感でもなんでもなかった。
毎日続く滝のそばでの具現化能力の修行。本当に何度言ってもあいつはぶっ倒れるまで止めようとしない。そして、その甲斐あってのことなのか、ある日、奴のオーラが突然弾けるように広がった。
「とうとう……やったか」
俺はいつもクラピカがいる滝から流れ込む河の下流に行ってみた。
思った通り、クラピカがゆっくりと河の中を浮きつ沈みつしながら、流されてくるのが見えた。そして、奴の指から延びている長い長い鎖。
川底に、蜘蛛の糸のように張り巡らされた鎖。
捕らわれた蝶。
成功したのだ、とうとう。鎖の具現化に。
奴の望みが叶ったのだ。
俺は長いため息をついた。
本来だったら、弟子の成長は師匠として喜ぶべきことのはずなのに。
やはり、少しも嬉しくない。心に沸き上がるのは、どうしようもないジレンマだけだ。
これでいいのだろうか。本当に、これでいいのだろうか。
何十回、何百回と繰り返してきた問いを、もう一度繰り返す。
やはり答えは見付からない。
俺は河の中に入っていって、気絶しているクラピカの身体を抱き上げた。
指から延びた鎖がすうっと消えていく。
完全に気を失っているクラピカの濡れた身体は、思ったより軽かった。そして、その表情はとても穏やかで。
「……クラピカ?」
声をかけても起きる気配はない。具現化に成功して気が抜けたんだろう。本当に。
俺はそっとクラピカを抱きかかえたまま小屋に戻り、柔らかなシーツの上に寝かしつけた。
せめて、今だけは穏やかな眠りでありますように。
いつもの死体を数える悪夢ではありませんように。
俺の願いが聞き届けられたのか、クラピカの寝顔はいつもと違う穏やかなものだった。
じっと俺がクラピカの寝顔を覗き込んでいたら、クラピカが少しだけ身じろぎをした。金糸の髪からつーっと滴が流れ落ちる。
一瞬、濡れた身体を拭いてやった方が親切なのだろうか、とも思ったが、意識のない間に、俺に身体を触られたと分かったら、こいつはそれこそ俺を許さないんじゃないかとも考える。
しばらく試行錯誤したあと、俺は結局起きたら気づくようにと、タオルを一枚、クラピカの身体の上に置いた。
とりあえず、これが精一杯。俺の役目はここまで。俺はこれ以上踏み込んではいけない。
そう思ったのに、俺は何故かそのままその場を動けないで、じっとクラピカを見下ろしていた。
白い肌。細い肩。濡れた唇。伏せられた長い睫毛。
本当に、こうやってみると、こいつの顔の作りがやけに綺麗な事に今更気づく。
きちんと髪も伸ばして綺麗な服でも着たら、みんなが振り向く美少女ってやつなんじゃないだろうか。もしかして。
もしかしなくても。きっとそうだろう。
俺はそっとクラピカの濡れた頬に手を添えた。クラピカが小さな吐息を吐く。ほんのりと赤みを帯びた唇が微かに開いた。
「…………」
触れるほど近くに顔を寄せて、俺は動きを止める。
何をやってんだ。俺は。弟子相手に。こんなクソガキ相手に。
「……止めた止めた」
吐き捨てるようにつぶやいて俺は小屋を出た。
何をやっているんだろう。本当に。
この俺があんなガキ相手に何を。
そう言いながらも俺は足を止めて、もう一度小屋を振り返った。
なんでだろう。あいつを見ていると、苦しくなる。
どうにかしてやりたくて、苦しくなる。
このままあいつが修羅の道を進むことが、耐えられないと思えてくる。
何度も引き返そうと思った。こんな底なし沼に引きずり込まれる前に、やめておけば良かった。
本当に、やめておけば良かった。
こんなにあいつのことを。
クラピカのことを。
愛おしいと思う前に。

 

――――――制約と誓約。
その話をした時、奴は命をかけると言い切った。
自分に課した2つのせいやく。それを遵守することで、己の能力を更に高める方法。
奴は言った。
捉えたら決して逃がさない鎖が欲しい。ターゲットは蜘蛛。蜘蛛以外には使用しない。
その掟を破れば、奴に襲いかかるものは死。
此の期に及んで、俺は再び後悔の念に苛まれる。
だが、もう、後戻りは出来ない。出来ないんだ。
だったら、俺はこいつを生かす為に何でもしよう。
たとえこいつが望まなくても、こいつを生かし続ける為に、何でもしよう。
強くなることで、こいつが少しでも楽になるのなら。ほんの少しでも楽になるのなら。
何が正しいのか分からない。どうすることが一番良いことなのか分からない。
ただ、少しでも楽になるのなら。強くなることで、お前が少しでも楽になるのなら。
その為だけに、俺はお前を導こう。
緋の目になった時、クラピカのオーラの絶対量が変わったのに気づき、俺は奴にもう一度水見式をやらせてみた。
奴の中の隠されたもうひとつの能力。
特質系能力の発見。
これがあれば、クラピカはもっともっと強くなれる。
俺はクラピカの能力を伸ばすために考えられるあらゆる事を試してみた。
奴は、真綿が水を吸収するように、俺の指導を習得していく。
奴の中の何かがどんどん目覚めていく。
クラピカの持つ特質系の能力は、他の全ての系統の能力をも100%発揮する力だった。それこそ、奴がもっとも望んでいた強化系の能力さえも、奴は緋の目である間は自由自在に扱える。
もう、誰にも止められない。成長していくこいつの能力。念の力。
クラピカの想い。
クラピカは強くなっていった。驚くほどの速さで。
強くなりたい。もっともっと、力が欲しい。
もっともっともっと。
クラピカは、ずっとそう言い続けていた。
クラピカの望む強さとは何だろう。復讐の為の強さ。つまりは相手を殺すための強さなのだろうか。
鎖の具現化。制約と誓約の誓い。エンペラータイム。絶対時間。
本当に、よくもここまでと言うほどの短期間の間に、クラピカは成長した。
蜘蛛に対してのみということで言えば、もう完璧と言っていいほどに。
「クラピカ……」
「…………」
名前を呼ばれてクラピカが振り返る。
「お前、本当にそれでいいのか?」
「…………?」
クラピカが首を傾げる。
今のクラピカが持っている強さは、心の強さではない。決して。
クラピカの念能力が強くなればなるほど、反対に、俺には奴の心がどんどん脆くなっていっているような気がしたのだ。
どうしようもないジレンマ。本当に、どうしようもない心の痛み。
クラピカが強くなればなるほど、俺は苦しくて仕方なくなっていった。

 

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