笑わない天使 (8)

鎖の具現化。
ただでさえコントロールが難しい具現化能力の中において、金属物質を具現化しようなんて、考えてみたら念を覚えたての新人ハンターには荷が勝ちすぎる課題だろう。
だが、クラピカは譲らない。本当に頑固者というのは始末が悪い。そう思う心の反対側では、ここまでの執着心は、ある種尊敬に値するのだろうか等とも考える。
ただ、状況はそんなに単純なものじゃない。
いくら尊敬に値するといっても、この状態を見過ごすわけにはいかないだろう。
毎日、毎日、何時間も何時間もクラピカは具現化能力を習得するための訓練を続ける。
神経が焼き切れそうな程、集中して。
毎日毎日、倒れるほどに。
そして、それに比例するように、またクラピカの睡眠時間が目に見えて減っていく。
自分自身を追い込んで、追い込んで。
こいつは、まるで死にたがってでもいるのではないかと錯覚する。
どんなに消耗していても止めようとしない。どんなに苦しくても止めようとしない。
そして、更に笑顔が消えていく。
笑わない。もう。
どうやれば笑えるのか、そんなことも忘れてしまったかのように、今のクラピカは笑わない。決して。
こんな気持ちになるなんて。本当に。
だから嫌だった。本当に、本気で、本心から嫌だった。
浅い眠りの中で、俺はクラピカの声にふと目を覚ます。
苦しげな声、苦痛の呻き。
少しでも眠れるようにと渡した睡眠薬も何の効果もない。というか、こいつはそれを飲んでいないのかも知れない。
「おい、クラピカ」
さすがに心配になって声をかけてみる。
苦痛と恐怖の中で、それでも睡眠をとるのと、その恐怖から逃れる為に目を覚ましておくのと。もう、どちらが正解なのかすら分からない。
「おい、クラピカ、目を覚ませ」
ただ、見ていたくない。
だから、これは俺のエゴだ。俺が我慢できないだけなんだ。
「クラピカ!」
「……し……師匠……?」
ぼんやりと開けた瞳の色が、微かな緋色だった。
「……うなされてたぜ、お前。大丈夫か」
「……あ…ああ、大丈夫だ。すまない」
意外に冷静な声でクラピカは答えた。瞳の色はいつもの色に戻っている。
俺は丸めてわきに置いていたタオルをポンとクラピカに投げて渡した。ひどい汗が頬を伝っているのが見えたから。
クラピカは素直に受け取り、頬と首筋の汗を拭う。
いつまでも。何年経っても心の中から消えないのは、単純に忘れられない程の恐怖だったからなのだろうか。なんだかこいつを見ているとそれだけではないような気になってくる。
なんだろう。よく分からないが、他に理由があるような。
そう、忘れられないんじゃなくて、忘れたくない。忘れてはいけない。
そう心で思いこんでいるような。
「…………」
馬鹿な。いくらなんでもそんなこと。
普通、人間ってのは、嫌な記憶は早く忘れたいと願うものだ。中にはその為に記憶喪失になる輩だっているという。自分を護る為には、あまりにも酷い心の傷はオブラートで包んで、見えなくして、そして、消去する。そうしないと生きていけない。あまりにも苦しすぎて生きていけない。
人間ってのは、そういった自己防衛本能というものがあるはずなんだ。
それなのに、何故こいつは、忘れない。
いつまでも、いつまでも、忘れない。
「眼球をくり抜かれた死体というのを見たことがあるか?」
ぽつりとクラピカがつぶやいた。
「いいや、幸運にも俺はそういう体験はないんでな」
「そうだな……普通、そういうものだな」
「…………」
「転がっている死体を見ても、最初は分からなかった。血の海に紛れて、よく見えなかった。腕を出して身体を抱え上げようとして初めて気づいたんだ。緋色に変わっているだけだと見えていたそれは、緋色の眼球なんじゃなくて、目のあったはずのくぼみに溜まっている血だったんだと」
「…………」
「血の涙というものを初めて見た。あんなふうに流れる涙を、私は初めて見た。手が血の涙に赤く染まって、それ以外何も見えなくなって……」
俺は目を反らさず、じっとクラピカを見つめていた。そうすることしか出来ない自分を心底腹立たしく思いながら。
「私の心は罪の意識に苛まれている。あの時、皆と一緒に死ねなかったという罪の意識に」
「……なんで、それが罪なんだ」
死ねなかった罪。そんなもの、何処にも存在するわけはない。
クラピカは酷く傷ついた表情で顔を歪めた。
「みんな死んだ。父様も母様も、いつも優しくしてくれた叔父も、一緒に遊んだ友人も、歴史や地理を教えてくれた先生も。みんな。みんなだ。私だけが生き残ったんだ。何故」
何故。
そう言って、クラピカは更に顔を歪める。今にも泣き出しそうな程に。
「……何故、私は死ねなかった。死ななかった。何か理由があるはずだ。私が死ななかった理由が。でなければ……」
「…………」
「そうでなければ、生きていけない……!」
その理由が、復讐か。
俺はクラピカから視線を外し、きつく唇を噛んだ。
「……私は自分が許せない。一人生き残ってしまった自分が。皆と一緒に死ねなかった自分が」
クラピカは膝を抱える。
差し伸べられるすべての温かい手を拒否するように。
復讐の意味。
相手が憎いから復讐するのではなく、一人だけ生き残ってしまったのは、仇を討つためなのだと。だから自分は生かされているのだと。そう思わなければ生きていけなかった。死ねなかった自分自身を許せなかった。生き残ってしまった者の義務として、同胞の仇を討つ。それ以外の人生など許さない。でなければ苦しんで死んでいった我等が浮かばれない。
なんて一族だ。吐き気がする。
本当に、吐き気がする。
こんな幼い少女に。
いくらでも倖せになっていい権利を持っていたはずの幼い少女に。
まるで、拘束具で手足をがんじがらめに縛られてでもいるようだ。
復讐をしなければいけない。
怒りを忘れてはいけない。
同胞の無念の思いを忘れてはいけない。
そうでなければ、生きていてはいけない。
それは一種の強迫観念ではないのか。
「クラピカ……」
俺はそっとクラピカの肩を抱え込むように抱き寄せた。クラピカは抵抗せず、すっぽりと俺の腕の中に入ってくる。
小さな身体。思った以上に柔らかい。やはり少女なのだ。本当にこいつは、まだ、少女なのだ。
「俺はお前に師匠として言うぞ。他の誰が何と言おうが、お前は生きていていいんだ」
ぴくりと俺の腕の中でクラピカの身体が震えた。
「大丈夫。俺が許す」
「……許す……?」
「ああ、お前は生きていていいんだ」
「…………」
「生きていていいんだ」
許すから。お前が生き続けることを。俺が、許す。
だから。
生きていて欲しい。
ずっと、ずっと、ずっと、生きていて欲しい。
やがて、クラピカの身体が小刻みに震えだした。くぐもった小さな声が聞こえる。
「本当に……私は、生きていていいのだろうか……」
「ああ、そう言ったろう」
「…………」
「お前は生き続けていていいんだ」
笑わない天使が、今、俺の腕の中で透明な涙を流す。
このまま、永遠に時が止まればいいのにと思った。

 

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