天の河越えて(1)

ザザーンと寄せては返す波の音にじっと耳を傾けて、正人はそっと目を閉じた。
夜が白んできてから朝日が昇るまでの数十分、ここ数ヶ月間、まるで日課のように正人はこの海岸へと足を向けていた。
小さな街の小さな海岸。もちろん観光地でも何でもないので、人っ子一人居ない。
そんな誰もいない海岸は正人のお気に入りの場所だった。
まるで海を独り占めしているような気分になれたから、そこが気に入った理由なのかもしれない。
「欲張りとか言うなよ。伸……」
小さくつぶやく。
耳慣れた波の音。
懐かしい萩とはすこし違う波の音に、最初は戸惑いも大きかったが、今ではどちらも同じくらい好きになった。
何故なら、この海は遥か日本へ続いている。
遠い遠い彼の地の、懐かしい彼の地の、懐かしい人達の居るあの場所に。
一度はもう二度と帰らないだろうと思っていた、彼の地。
逢いたくて、逢えない。逢ってはいけないと心に言い聞かせていた懐かしい人。
懐かしい緑の、翡翠の瞳の持ち主。
チクリと心が痛くなった。
やはり、自分はまだまだ修行が足りないらしい。
くすりと正人が自嘲気味な笑みを唇の端に浮かべた時、小さく砂浜を蹴る足音が聞こえてきた。
「マサトー! やっぱり此処だったんだ」
走りづらいはずの砂浜をいとも軽々と駆けてきたのは、今正人がお世話になっているホームステイ先の家族の少年、ルディだった。
「もう、いつもいつもこんな所でボーっとして、何やってるんだよ、マサトは。朝の散歩もいいけど、そろそろ戻って来ないと駄目じゃないか。朝食出来たから呼んできなさいってマミーが怒ってたよ。冷たいスープ飲みたくなかったら急いで帰ってこいってさ」
「ああ、OK。ごめんごめん」
プーッと頬を膨らませて怒っているルディの頭を宥めるようにポンポンと叩き、正人はすまなさそうにニッと笑った。
正人の笑顔につられたようにルディの顔にも笑顔が広がる。
イギリス人特有の白い肌に薄いそばかすが散っている少年の笑顔は相も変わらず可愛らしい。
正人がこのルディ少年の家にホームスティを始めて、もう半年が過ぎようとしていた。
出会った当初から人見知りをしない少年だったルディは、すぐに正人と打ち解け、今ではまるで本物の兄弟のようになっている。
淡いプラチナブロンドの髪に翡翠の瞳。
ふと、懐かしげに目を細め、正人はじっとルディの瞳を見つめた。
「…………」
翡翠の瞳。イギリス人ならさほど珍しくはない瞳の色なのだが、それは正人にとっては何にも代え難い色に映った。
懐かしい彼の人と同じ色。同じ瞳。
初めて会った時、正人があまりにもじっと瞳を見るので、ルディはかなり不審そうにしていたものだった。
今でも、ルディは正人が自分の瞳を気に入っている理由を知らない。
正人はこのイギリスで一度も伸のことを話したことはなかったのだ。
でも、理由が分からなくても、ルディは正人に何も聞かず、ただ大きな瞳をくりくりと動かし、いつも正人に向かって楽しそうな笑顔を向けてくれた。
「行こう、マサト」
「ああ」
ルディに手を引っぱられて正人は海岸から家に向かって走り出した。
頭の後ろでは絶えず波の音が響き続けている。
波の音と緑の瞳。
やはりどうしようもなく胸が痛んで、正人は少しだけ唇を歪めた。

 

――――――朝食を済ませ、部屋に戻ってきた正人はデスクの上にあったパソコンの電源をパチンと入れた。
現在、学校は夏期休暇中。だが、夏期特別講習の予定を入れてしまっていた正人には、ゆっくり休める時間はない。明日が提出期限である課題のレポートを作成しなければならないのだ。
デスクトップに映し出された海の画像を隠すようにワードを立ち上げると、正人は小さくため息をついた。
この気持ちはホームシックではない。そりゃ日本が恋しくないのかといえば、恋しいことに違いはないのだが。
なんとなくいつもの習慣になっているメールソフトを起動させる。
着信メールは、数通のメールマガジンと学校の友人からの明日の代弁依頼のメール。
「……ったく、またサボる気か? あいつは。何のために夏期講習取ったんだっての。それに課題どうする気だよ……」
呆れ顔で返信文を作っていた正人は、ふと下書きフォルダに入れたままになっている1通のメールを開いた。
「…………」
作りかけのメール。
送信先のアドレスも打ち込み済みなのに、メール本文は白紙のまま。
正人はじっと、その白紙のままのメールを見つめていた。
このメールを打ったのは、この家に来て初めてあの海岸に行った日。
あの時からずっと心の中に燻っている思い。
カチャ。
無意識に正人の指がキーボードの上をすべった。
カチャカチャカチャ。
メール本文に綴られていく、ひとつの言葉。
「……何やってんだ。オレは」
ふいに手を止めて正人はベッドの上に身体を投げ出した。
指には、たった今まで打っていたキーボードの感触がまだ残っている。
自分は何を望んでいる。何を期待している。何を考えている。
自分の考えがバカバカしくなって正人はくすりと笑みを浮かべた。
「ほんっと修行が足りねえ……」
ザザザーン。
空耳のように波の音が正人の頭の中に響く。
海の匂いのする懐かしい幼なじみの顔が浮かぶ。
見慣れた子供の頃の笑顔が少しずつ変化していく。見たことがあるようで、見たことのない顔に。
この気持ちは何だろう。この気持ちは本当に自分の、自分だけの想いなのだろうか。
解らない。頭の中が混乱している。解らない。ただ。
解らないけど、ただ。
「……逢いたい?」
澄んだ天使のような声にはっとして正人はベッドから飛び起きた。
「あ、ごめん。マサト寝てたの?」
「ル……ルディ?」
「マミーがお茶にしないかって言ってるんだけど……あっ!!」
言いながら何気なくキーボードの上に手を置いてしまったルディが慌てて画面を覗き込み、更に大きな声をあげた。
「うわぁ! ごめんっっマサト!」
「……!?」
「メールが……」
パソコン画面の上に開いているメールソフトの上に『1通のメールを送信しました』の文字がポップアップ表示されていた。
「……あ」
「ご……ごめんなさい……」
確かめるまでもない。
たった今、本人の意思とは無関係に送信トレイに移ってしまったメールは、さっきまで開いていた例の白紙メール。
正人が無意識に打ってしまったひとつの言葉を乗せて、そのメールは今、海を越えた。
送るつもりのなかった言葉だったのに。
「ご……ごめんなさい。メール打ってる最中だったんだね」
「あ……いいよ、もう。送っちゃったものは仕方ない。今更どうしようもないし」
どうしようもない。
もう、取り消せない。
あれが届いたら、あいつは何て思うだろう。
複雑な表情のまま、正人はベッドの縁に身体を起こした。
そういえば、あの家はパソコンが1台しかなかったはずだ。
書斎に置いてあるというそのパソコンを使用するのは約1名の男のみ。他の人間はほとんど使用していないものではあるが、それでもよければと、あいつはメールアドレスを教えてくれた。『電話よりメールの方が安くすむしね』と笑いながら。
「ねえ……マサト」
ベッドの縁に腰掛けたまま動かない正人を気遣って、ルディがおずおずと声をかけた。
「今のメール。間違って途中で送信しちゃったって、送り直さなくていいの?」
「…………」
ふっと笑みを見せて正人は首を横に振った。
「別にいいよ。最初から送るつもりのなかったメールだし。間違いメールと思われて、奴が捨ててくれれば一番良いんだけどなあ」
「奴って?」
「ああ、こっちの話。何でもないよ」
そう。多分あのメールを最初に目にするのは、あの男だろう。
だとしたら、本当にあのメールはあいつの目に触れる前に闇に葬られるかも知れない。
そのほうがいい。ずっといい。
「マサト」
もう一度ルディが正人に声をかけた。
「本当にいいの?」
「……何が?」
ようやく正人はまっすぐ顔を上げてルディを見た。
ルディは例の翡翠の瞳を大きく見開いて、じっと正人を見つめていた。
「ルディ?」
「マサト……さっきのメール途中までしか打ってなかったけど、逢いたいって書いてたじゃない。本当にいいの?」
「…………」
「逢いたいなら、逢いたいって、ちゃんと言わなきゃ」
「……いいんだよ。言わなくて」
「どうして?」
「言っちまったら、もっと逢いたくなるから」
にっこりと笑って、正人はそう言い切った。

 

――――――「当麻、きりが良かったら居間へ来なよ」
「……し…伸!!」
ノックもなしにいきなり開いた扉の音に文字通り当麻は飛び上がった。
とっさに押してしまった指の下でパソコンが機嫌の悪そうなエラー音を発する。
「うわ……やべえ……」
どうやら妙なキーを押してしまったらしい。いきなり真っ黒になったパソコン画面を見下ろして当麻はポリポリと頭を掻いた。
「何やってんの?」
「お前がいきなり声かけるからビックリしたんだよ」
「何もそこまで驚くことないだろ。いつものことじゃないか。それとも、何か見られちゃヤバいようなもの見てたの?」
「そういう勘繰りよせよな」
ぶつぶつ言いながら当麻はパソコンに再起動をかける。
無事立ち上がった起動画面を見て、ほっと胸を撫で下ろし、当麻はようやく伸を振り返った。
「で、何? 居間へ来いって?」
「あ、うん。クッキー焼いたんで呼びに来たんだ。みんな揃ってるし」
「わかった。こいつの調子見てすぐ行くから、秀にオレの分残しとけって言っておいてくれ」
「了解」
パタンと扉が完全に閉じたのを確認して、当麻は再びパソコンに向き直った。
そして、やけに浮かない表情のまま、先程見ていたメールの画面を起動させる。
「…………」
今さっき届いた一通のメール。
一瞬間違いメールかと思った。でなけりゃ新手のウィルスか何か。
それは、英語で書かれたたったひとことだけのメールだったからだ。
『I want to meet.』
言葉の意味を理解してはっとする。そして同時に確信を持つ。これが誰から誰へ宛てたものか。
遠い空の下。逢うことすら叶わない距離を間に挟み、あいつは、今まさに、この瞬間、こんなことを思っていたのだろうか。
小さくため息をつき、当麻はギリッと唇を噛みしめた。

 

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