悪夢 (1)

「早く!早く行きなさい!!」
「……!!」
「何処でもいいから遠くへ!遠くへ行きなさい!運が良ければ近くの島にたどり着けるわ」
「……!!」
「早く!早く行きなさい!!」
「…か…ぁ…」
「何してるの!早く!!」
「…か…あ……さん…お…かあ…さ…ん……お母さん……!!」
「……愛してるわ。どうか無事に生き延びて」

 

――――――「……!!!」
「…うわっ!!」
真夜中。
いきなりものすごい力で腕を掴まれ、朱雀は驚いて飛び起きた。
「!?」
見ると、隣で寝ていたはずの疾風が朱雀の身体にしがみついてガタガタと震えている。
「お…おい。何やってんだよ」
しがみつく腕の力の強さに思わず顔をしかめて、朱雀は開いている足で疾風の腹を蹴り上げた。
衝撃で僅かに身体が宙に浮いたが、それでも疾風は低く呻き声をあげたまま更に掴んだ腕に力を込める。
「痛っ……てめえなあ。いい加減にしろ!」
もう一回腹を蹴り上げると、疾風はようやくほんの僅か腕の力を緩め、その代わり身体を九の字におりまげて、額に脂汗を浮かべた。
「お…おい。お前…こんな所で吐くなよ」
「……………」
「ったく…しゃあねえなあ」
疾風の襟首を掴みあげ、朱雀は引きずるようにして疾風を洞窟の外へと連れ出した。
この島に来た当初から、疾風はよく夜中に発作を起こしたように具合が悪くなって何度か吐いたことがある。亜門に言わせると、夢の中で例の水難事故を思いだして恐怖に駆られているらしいが、口がきけるようになってから、少しずつ発作の回数も治まっていたはずなのに、まだこんな風にぶり返すことがあるのだろうか。
まったくいい加減にして欲しいと心の中で舌打ちをして、朱雀はドサッと掴んでいた疾風の襟首を離し地面へと突き飛ばした。
疾風はまだかなり気分の悪そうな真っ青な顔色をしてゼイゼイと荒い息を吐いている。
それでも、何とか吐き気だけは治まったのか、ゴクリと唾を飲み込んで、申し訳なさそうに朱雀を振り返った。
「……ごめん…」
答える代わりに朱雀は力一杯疾風の頭を殴りつける。
「まったく、呆れてものも言えないってのはこのことだよ。この名無し野郎。具合悪くなる度に誰かをたたき起こさなきゃ気がすまねえなら、明日から一人で別んとこ閉じ込めるぞ」
「同感だな」
いつの間に現れたのか、珠龍も洞窟の入り口で大きくため息をついていた。
「なんだ、弟龍、起きたのか?」
「起きたのかじゃない。あれだけ騒ぎゃ誰だって目が覚める。亜門もどっかで今頃舌打ちしてんじゃないか?」
「それ、ありうるな」
此処は島の海岸沿いの洞窟。
最近の朱雀達の寝場所となっている洞窟であり、たいていは皆、此処で夜は集まって眠っていたのだが、最近亜門はふらりと何処かへ出かけたきり帰ってこないことが多かった。
理由はひとつ。
此処にいるとうるさいから。
実際の声と心の声。両方の声が聞こえてしまう亜門にとって、たまにまったく声の聞こえない静かな場所でゆっくり眠ることは重要な滋養の一部になっているらしい。
「ごめん。悪かったよ」
小さくなって俯いたまま疾風が消え入りそうな声で謝った。
わかっているのだ。過去を思い出したくないほど辛い体験をしてきたのは自分だけじゃない。
むしろ、ほとんど忘れてしまっている自分の方が、他の者より楽なこともわかっている。
わかっているのだが。
「また…見たんだ」
無言で朱雀と珠龍が視線を交わし会った。
「いつもの夢だ。嵐の夜。転覆した船の中で、オレの身体を海面に浮かんでた木ぎれにくくりつけて誰かが押し出すんだ。波が高くて、何度も海水を飲んで、息ができなくて」
「……………」
「苦しくて苦しくて。女の人がオレの名を呼んでるみたいなんだけど何て呼んでるのか聞こえなくて。波の音にかき消されて聞こえなくて。微かに逃げろってそれだけわかって……」
疾風はギュッと自分の膝を抱え込んだ。
「きっとあれは母さんなんだろうけど、オレ、顔も何も覚えてなくて………ただ、苦しくて…苦しくて…何処かへ逃げたくって…」
「眠るたびに嫌な夢見るくらいなら寝るのなんかやめちまえ」
吐き捨てるようにそう言って朱雀は疾風に背を向けた。
「何処へ行くんだ、朱雀」
「いつまでもこんな野郎に関わってられるかってんだ。オレはもう寝る」
「寝るって…また兄者のとこへ行く気か?」
「いけないか。あそこの方が眠れるんだよ。それとも何か。いくら兄弟だからって兄者の所へ行くのに弟の許可でもいるってのか?」
「そんなこと言ってない。好きにしろよ」
ペッと地面に唾を吐いて、朱雀はそのまま洞窟の奥へと姿を消した。
珠龍が低くため息をついて、じろりと疾風を見下ろすと、疾風はまるで月の光から身体を隠すように更に小さくなって俯いていた。

 

――――――入り口近くのさっき自分達が寝ていた場所を素通りし、朱雀はそのまま洞窟の奥へと進んでいった。
ゴツゴツした岩肌は気をつけないとすぐに足を取られて転んでしまうほどに歩きにくい。
しかも、もう月明かりさえ差し込んでこないこの場所では、さっき持ってきたランプの申し訳程度に灯っている灯りだけが頼りである。
一歩一歩踏みしめるように歩みを進め、朱雀は洞窟の一番奥へと突き進んだ。
やがて、ひんやりとした空気に微かに薬草の匂いが混じってくる。
「…………」
蒼龍の場所だ。
ふっと安心したように息をついて朱雀は中にいる蒼龍に声をかけた。
「兄者」
「朱雀か?」
やはり蒼龍は起きていたようで、まっすぐ顔をあげ、朱雀のほうへ身体を向けた。
「やけに表が騒がしかったようだが、また疾風がどうかしたのか?」
「ああ、その通り。見てくれよ、思いっきり腕掴まれて青痣が……」
言いかけて朱雀はハッと口を閉じた。
そうだ。蒼龍の目は何も見ることが出来ないのだった。
言葉を途切れさせた代わりに、朱雀はふっと手に持っていたランプの灯りを消した。
とたんに辺りは真の闇に包まれる。もう、相手の顔さえ見えない。
朱雀は手探りで蒼龍のそばへ行き、どかりと隣に腰を降ろした。
「まったく毎回毎回たたき起こされるこっちの身になれってんだ。あのガキ」
「それで避難してきたのか?此処へ」
「ああ。こっちの方が静かでいい」
そう言って朱雀はうーんと伸びをしてゴロリとその場に寝転がった。
「なあ、兄者」
「なんだ?」
「あいつのさ…名無しの覚えてる最後の母親の言葉って、逃げろ、なんだってさ。笑っちまうと思わねえか?」
「……………」
「オレ達はどいつもこいつも、その場所に居られなくなって逃げ出してきたんだ。
「……………」
「そうやって逃げて逃げて。ようやく辿り着いたのがこの地獄の島だぜ。ホント笑っちまう」
「……朱雀」
そっと手をのばし、蒼龍は朱雀の絹糸のような髪を梳いた。
指にそっと癖のある髪を絡め取り、はらりと落とす。
朱雀は疎ましがるでもなく、じっと黙ったまましばらく蒼龍にされるまま髪の毛を遊ばせていた。
「兄者」
やがてぽつりと朱雀が口を開いた。
「名無しを見てると、あいつを思い出すんだ。そして、その度に、もうあいつは戻ってこないってこと思いだす。だから、嫌なのかな?」
蒼龍は何も答えなかった。
ただ、黙って朱雀の言葉に耳を傾けていた。

 

――――――逃げろ。
最後の言葉がそれだった。
朱雀が初めてその少年を見たのは薄汚れた路地裏の片隅だった。
もう日も落ちかけた夕暮れ、真っ青な顔をして、少年は朱雀が身を寄せている売春宿の親父に腕を掴まれ、引きずられるように朱雀の目の前を通り過ぎていった。
「………?」
たまに親父がめぼしい少年や少女を何処かから連れて来ているのは知っていたが、あそこまで幼い子供は初めてかも知れない。
自分以外には。
「新入りか?あんなガキが?」
自分も充分ガキの部類に入ることなど棚の上に置いておいて、朱雀はそっと親父と少年の後を追って歩きだした。
まだ声変わりさえまともにきてはいない程の幼い顔。
孤児か、浮浪児か。それとも家が貧しすぎて売られてきたか。お世辞にも上等とは言えない衣服に身を包み、やせ細った身体で少年は怯えたように自分を連れて歩く男の冷酷そうな顔を見あげていた。
あの少年は知っているのだろうか。これから自分に起こるであろう現実を。
気付くと、ギギーっと建付の悪そうな扉を押し開け、親父が少年を連れて宿の中へ入っていくのが目に映った。
チッと舌打ちをして朱雀が上を見あげると、二階の窓のひとつにポッと灯りがともる。
「あそこが地獄の三丁目ってわけか。あいつの」
低くつぶやいて朱雀はひとつため息をつくと、扉を開けて宿の中へ入っていった。
やはり二階から親父らしい男の声が微かに聞こえている。
恐らく親父は少年に、生き残りたければこれからこの部屋に来る男の言うことをおとなしく聞いて何でも素直に従えとでも言い聞かせているのだろう。
いつだってそうだった。
朱雀が初めて此処へ来た時も、同じように何がなんだか解らないうちに此処まで引っ張ってこられ、小さな部屋に連れ込まれて何の説明もないまま初めての客を取らされた。
あまりの恐怖と痛みに、その頃の記憶は所々抜け落ちている。
飢えと乾きと恐怖と、それからあらゆる痛み。
身体を切り裂かれるような鋭い痛みと、後々まで残る鈍い痛み。
鞭なんか使われた日には何日も痣が消えなかった時もある。あまりの出血にシーツが血の海になったことさえある。
頭にこびりついて離れない吐き気のするような現実。
睨みつけるように二階を見あげていた朱雀に気付き、親父がゆっくりと階段を降りてきた。
「何だ、朱雀。帰ったのか。次の客がくるのはまだ少し先だ」
「ああ」
「そうそう、今日、新人が入ったぜ」
「知ってる。今、見た」
「そうか。お前とは系統の違う美人だが、あれもなかなか上玉だ。お前と年も近そうだし仲良くしてやれよ」
「けっ、知るか、そんなこと。オレは誰とも仲良くなんてしねえよ」
「そうだったな」
ニヤリと親父が胸くその悪くなる笑みを浮かべた。
下卑た笑いを浮かべて親父は舐めるように朱雀を見下ろす。朱雀の身体を値踏みしているようないつもの男の視線。
まとわりつく生臭さに吐き気を催して朱雀がくるりと背を向けたとたん、二階から鋭い悲鳴が聞こえた。
「……………」
さっきの少年の悲鳴だ。
「やけに早いな」
思わず朱雀がそうつぶやくと、親父はククッと喉の奥で笑いながら二階を見あげた。
「女の一人が熱だしててな。聞いてみたら少年でも構わないって言うからあてがってやった。惚れ惚れするような男前だぜ。あいつの初めての客はよ」
「このゲス野郎」
低くつぶやきながら、朱雀はそのまま親父の横をすり抜けて階段を二階へと上がっていった。

 

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