見果てぬ夢

「じゃあ、行ってきます」
スポーツバックを肩に背負い直しながら出発を告げると、母さんはやはり心配そうな顔をしてじっと僕の顔を見つめていた。
「淳、無茶したら駄目よ。何かあったらすぐにチームドクターに言うんですよ」
「母さん。何度も言ってるように今回僕はコーチとして招集されたんだよ。選手じゃないんだから、無茶なんかしようがないじゃないか」
「でも……」
「本当に心配性なんだから。大丈夫。ちゃんと帰ってきます」
「淳……」
「ちゃんと無事に帰ってきますから」
出来るだけ元気な声で安心させるようにそう言うと、ようやく母さんも笑顔を見せてくれた。
いつもいつも。
本当に、母さんは僕が出かけるたび、そうやって不安そうな顔で僕を見送る。
いつもいつも。
そして、心が痛くなる。
あの時からずっと。
僕の心の痛みはなくならない。
ずっとずっと。
永遠に。

 

――――――僕が初めて発作を起こして病院へ運ばれたのは、8歳の誕生日を少し過ぎた頃だった。
それまでもたまに思い切り走った後など胸が苦しくなることはあったが、なんとかすぐに治まるものばかりだったので、僕は周りの人にばれないようにと、ずっと黙っていたのだ。
病院の白い天井を見上げて、僕が最初に思ったことは、とうとう来ちゃった、ということだった。
何がとうとうなのか。何が来たのか自分でもうまく説明はできなかったが、それでも、僕の感想はそのひとことだった。
「……淳……」
目を向けるとお母さんが真っ赤に泣きはらした目をして僕を見つめていた。
病室の壁際には青ざめた顔のお父さんも居る。
握りしめてくれていたお母さんの手が汗ばんでいるのがわかり、僕はほんの少し済まなさそうに視線を伏せた。
「……お母さん……」
「淳……どうして今まで何も言ってくれなかったの……?」
「何もって……」
「お医者様がおっしゃっていたわ。発作が起こったのは初めてではないはずだって」
「……!!」
「ずっと苦しかったんでしょう。どうしてお母さんに言ってくれなかったの?」
「それは……」
言えるわけはない。
どうしてなのか、そんなこと自分でも解らなかったのだから。
ただ、言ったらお終いな気がしたんだ。
何かが確実に終わってしまうような気が。
「淳君」
気が付くとお母さんの後ろに白い白衣を着た中年のお医者様が立っていた。
小脇にカルテを抱えて、じっと僕を見下ろしている。
「…………」
「淳君。怖がらなくてもいいから、ちょっとだけ私の質問に答えてくれるかな?」
余程僕は警戒心を露わにした表情をしていたのか、先生はそう言って僕に暖かな笑顔を向けた。
「こんなふうに胸が苦しくなったのは初めてじゃないね」
「……うん」
僕は素直に頷いた。
「じゃあ、いつからこういう発作…胸が苦しくなるようなことが起き出したんだい?」
「……えと……一番最初は……一年生の時の運動会の後……かな……?」
そばでお母さんが小さく息を呑むのがわかった。
「じゃあ、その時どうして先生に言わなかったんだね?」
「…………」
「苦しかったら、ちゃんと先生に言わなきゃ駄目だろう?」
「それは……すぐ治まったし……その……」
言ってはいけない気がした。本当に、どう説明すればわかってもらえるのかわからなかったが、本当に、言ってはいけない気がしたんだ。
「あの……先生」
僕は視線をあげてじっと先生を見つめた。
「何だね? 淳君」
「先生……僕……死ぬの?」
「…………!!」
お母さんが小さく悲鳴をあげて僕の手をぎゅっと握りしめた。
かなり強い力だったが、僕は顔をしかめることもせず、そのまま先生の顔を見つめ続けていた。
先生は困ったような表情をしてベッド脇ににしゃがみ込むと、僕の顔を覗き込んだ。
「淳君。これから私が話すことをしっかり覚えておくんだ。いいね」
「……先生」
お母さんが不安そうに先生を見あげる。
「淳君。君はとても良い子だ。優しいご両親と裕福な家庭に恵まれて、とても倖せに育ってきた。だから、ほんの少しだけ神様が君にやきもちを妬いたんだろうと私は思っているよ。」
「…………」
「いいかい。君は死なない。そんなことは私やご両親がさせるわけがない。だけどね。君の心臓がほんの少し他の子供達より弱いのも事実なんだ。心臓奇型と言ってね。難しいことは今ここで説明するべきことじゃないので省くが、君が大きくなって自分の身体のことを知りたくなったら、いつでも私の所へ来なさい。君が納得するまで教えてあげるから」
「……はい」
僕はもう一度こくりと頷いた。
先生はふっと表情を和らげて優しく僕の髪を梳いた。
「君の心臓は、他の子供達とは少し違う形をしている。だから、無理をすればこんなふうに心臓が痛いって悲鳴をあげてしまうんだ。でもね、君がもう少し大きくなる頃には、きっと君の心臓も一緒に強くなってくれる。私達はその為に君と一緒に努力していこうと思っている。わかるかい?」
「……努力……?」
「そうだ。無理をせず、少しずつ強くなっていこう。時間はかかるかも知れないが……」
「無理をせずにって……それ……僕にずっと病院にいろっていうこと……?」
失礼であることは充分承知していたが、僕は思わず先生の言葉を遮ってそう言った。
先生は気まずそうに眉を寄せて、言葉を途切れさせる。
やっぱり。
先生の表情を見て、僕は思った。
やっぱり、もっともっと我慢すればよかった。
誰にも知らせず、ずっと黙っていればよかった。
そうすれば僕は、もうしばらくの間、普通の子供として過ごすことが出来たはずなんだ。
「……淳……」
お母さんが目に涙を浮かべて僕の名を呼んだ。
「お母さん……?」
お母さんの顔を見つめ返すと、何故か僕の目にも涙が溢れてきた。
「ごめんなさい。お母さん」
僕がそう言うと、お母さんは顔を伏せ、声を殺して泣き出した。
「ごめんなさい」
ごめんなさい。ごめんなさい。
泣かないで。お願いだから泣かないで。
涙の止まらなくなったお母さんを連れて、先生は、少し落ち着いたらもう一度様子を見に来ると言い残し、僕の病室を出ていった。
僕は出ていくお母さんの後ろ姿を見送り、ふとため息をもらした。
すると、ずっと壁際に背をもたせかけていたお父さんが初めて僕を見て口を開いた。
「淳」
「……お父さん……」
やはり青ざめた顔色のままお父さんは僕のベッドの脇の椅子に腰を降ろして僕を見下ろした。
こんなに厳しい顔をしたお父さんを僕は初めて見たかも知れない。
僕は少し緊張してゴクリと唾を飲み込んだ。
「淳。お前は母さんが好きか?」
「……?」
突然何を言い出すのだろう。僕は当たり前じゃないかといった顔をして大きく頷いた。
「大好きだよ」
「だったら、母さんを泣かせるようなことはしないな」
「…………!?」
「しないな」
厳しい口調でお父さんは僕にそう繰り返す。
僕は大きく目を瞬かせて、じっとお父さんを見あげた。
「……お父さん……?」
「私の言う意味が解るなら、この間お前にやったプレゼントを返して貰う。いいな」
「プレ…ゼント」
つぶやいて僕はハッとした。
数日前の誕生日。僕はお父さんに新しいサッカーボールをプレゼントとして貰ったのだ。
サッカーボール。JFAのロゴの入った真新しいサッカーボール。
「そ……それは……」
「今のお前にサッカーをやらせるわけにはいかない。お前は自分の身体を治すことに専念して……」
「お父さん!!」
僕はシーツをはねのけてベッドの上に身体を起こした。
急に動いたので頭がくらくらしたが、そんなことに関わっていられる状態じゃない。
お父さんは僕の行動に慌てて手をのばし、倒れかけた僕の身体を支えてくれた。
「淳! 無茶をするなと……」
「お父さん……僕は生きたい」
「……え?」
「僕は生きていたいんだよ」
絞り出すような声で、僕はお父さんにそう訴えかけた。
「こんなの嫌だ。僕はずっと生きていたいんだ」
「淳、何を言ってるんだ。だから安静にして……」
「そうじゃない。僕が言ってるのはそんな意味じゃない……!」
痛かった。
胸が。心臓が。心が。
でもこのままだと、僕の心はもっともっと痛くなる。
僕はぎゅっとお父さんの腕を掴み、大きく息を吸い込んだ。
「僕は生きたい。僕が言ってる生きるってことは、長く生きるってことじゃない。命さえあればいいなんて事じゃない。そんなの全然違う!」
「……淳……」
「このまま走ることも、みんなとはしゃぐことも、笑うこともなくって、そんなの生きてるってことにならない。そんなの僕じゃない。僕は……僕はちゃんと自分の足で立って、歩いて……歩いて、生きていきたい」
言いながら僕はポロポロ涙を流していた。
心が痛くて痛くて、涙が止まらなかった。
ずっとずっと止まらなかった。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
知らず、僕の口から謝罪の言葉が洩れる。
お父さんはそんな僕の身体をぎゅっと抱きしめてくれた。
「淳……」
「ごめんなさい。お父さん。でも、僕は生きたい。生きていたいんだ。こんなの嫌だ」
「…………」
「嫌だ……」
「…………」
「嫌なんだ……」
泣きじゃくる僕の背中をさすり、お父さんはずっと長い間、僕を抱きしめ続けてくれていた。
お父さんの腕はこんなに温かかったんだと、僕は初めて知った気がした。

 

――――――そうして僕は結局、父さんにサッカーボールを返すことをしなかった。
母さんを心配させて、泣かせて。
それでも僕は、僕自身の意志で生きることを選んだ。
「ごめんなさい。我が儘な息子で」
僕がそう言うと、母さんは玄関口でほんの少し笑みを浮かべた。
「淳。貴方の人生なんだから、しっかりと生きてちょうだい」
「……母さん」
「頑張ってね」
「…………」
僕は倖せ者なのかもしれない。本当に。
こんなに我が儘で、心配ばかりかけ続けている息子なのに。
それでも、父さんも母さんも僕が生きることを望んでくれている。
命を長らえさせるための生きるではなく、自分の足で生きることを。
僕はもう一度深くお辞儀をし、母さんにひとつ笑いかけてから家を後にし、歩きだした。
精一杯生き続けるために。

FIN.     

 

 

後記

お疲れさまです。如何でしたでしょうか。
91919HITキリ番リクエスト。お題は「三杉ファミリーの話」でした。
ということで、今回は家族水入らず。お医者様はともかく、それ以外は一ノ瀬君でさえ出てこないという(笑)。
こういう身体に障害(って言ってしまっていいのかな?)を持っている息子を持った家族の心労って並大抵じゃないだろうなって、いつも思います。
そして、その度、自分がちゃんと健康であったことに感謝します。
五体満足で生きてこられたってだけで、私はきっととても倖せ者なんだろうなあって。
だから、その倖せを噛みしめて、きちんと生きて行かなくちゃって。でないと三杉さんに会わせる顔がないぞって。(←どうやって会うんだなどというツッコミはしないでね)
とにもかくにも我等がガラスの貴公子。皆の愛する三杉淳という少年が、少しでも倖せに生きられるように、これからも祈り続けたいと思います。
瑤子さん。こんな話でよろしかったでしょうか。
ではでは、武蔵FCのメンバーを今後とも宜しくお願いします。

2004.02.14 記   

 
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