柘植櫛

長い長い豊かな髪。
自分のくせのある硬い髪とは比べ物にならないほど細くてしなやかな柔らかそうな斎の髪は、なだらかな肩のラインに沿って緩やかにうねり、そのまま背中から腰まで伸びている。
手にした柘植櫛が絡むことなくするりと髪の先まで滑り落ちていくのを見て、柳は感嘆の吐息をもらした。
透かし彫りの入った見事な細工の櫛は斎の細い指に妙に似合っており、その櫛を手に髪を梳く斎の姿はまるで1枚の絵のようである。
「綺麗な柘植櫛ですね」
無意識にそんな言葉が柳の口から飛び出した。
近くに誰か居るなどと思ってもいなかったのか、斎はピクリと髪を梳いていた手を止めてゆっくりと振りかえる。
そして、真後ろに立っていた柳の姿を見止め、ふわりと斎が微笑んだ。
穏やかな空間。
この場に居られる事こそが、至上の幸福だろう。
すっと斎のそばに膝を付いて、柳は斎の手の中の柘植櫛を覗き込んだ。
遠目ではわからなかったが、この見事な細工の模様は緩やかな水の流れに浮かぶ桜の花びらをかたどったものだった。
「桜、ですね」
「ええ」
頷きながら斎は愛おしそうに手の中の柘植櫛をそっと撫でる。
その仕草で、柳はこの櫛を斎に贈ったであろう人物が誰なのか気付いた。
「これは、私の宝物です」
愛しげにつぶやく斎の声は、柔らかい真綿のように耳に届く。
ほんの少し、心が痛い。
柳は憂いを含んだ斎の横顔をじっと見つめた後、すっと瞳を伏せた。

 

――――――「あっ…」
深い森の中を歩いていた時、大きく伸びてきていた入り組んだ蔓草に斎の長い髪が絡まった。
「どうした?」
先を歩いていた雫が斎の声にふと振りかえる。
「兄様」
困ったように笑みを浮かべ、斎は絡まった髪を解こうと蔓草へと手を伸ばした。
雫はさっと斎のそばまで走りより、手に持っていた荷物を地面へ置くと斎の手に自分の手を重ねるように伸ばし、蔓に絡まった髪を手に取る。
「大丈夫。オレが解いてやるからじっとしてるんだ」
「…はい」
素直に頷き、斎はじっと身動きせずに、雫の手が自分の髪を蔓草から解いてくれるのを待った。
すぐ近くに雫の手がある。
触れるほど近くに雫の息遣いが聞こえる。
微かに鼓動を感じる。
それだけで、自然と自分の心臓が早鐘を打ち出すのを感じ、斎は手を組み合わせてギュッと目をつぶった。
「すまない。痛かったか?」
斎の行動を、自分が知らず髪を引っ張ってしまった所為だと勘違いして雫が慌てて髪を解いていた手を止めた。
「大丈夫です。兄様」
顔をあげた斎の美しさに、こんどは雫の心臓がドキリと鳴る。
「あ………」
「………」
「…な…ならいいが。もうすぐ解けるから、今しばらく我慢してくれ」
「はい」
ふわりと笑みを浮かべる斎を愛しげに見つめ返し、雫は斎の身体を抱きかかえるように再度腕を伸ばすと、蔓に絡まった最後のひと房を解き終えた。
「今度、お前に似合う櫛を贈ってやるよ」
「そんな…お気遣いは無用です。兄様」
「気遣いではない。オレが贈りたいと思ったんだ」
「兄様」
「男は駄目だな。こういうところに気が回らなくって」
くしゃりと前髪を掻きあげて照れたように微笑み、雫はそう言って地面に置いた荷物を肩に背負い直し歩き出した。
いつも見慣れている細身の長身。すらりと伸びた手足。
たたずんだままじっと雫の背中を見つめている斎に気付き、雫がどうしたのかと、再度振りかえった。
「斎…?」
「兄様…!」
たたっと駆けより、斎がふわりと雫の腕の中に飛び込んだ。
「……!」
優しい香りが鼻腔をかすめる。
柔らかな斎の身体を抱きとめた拍子に、雫の手から再び荷物が滑り落ちた。
「どうした。斎」
「有り難うございます。兄様」
「斎」
「とても嬉しい。本当に有り難うございます」
「…………」
一瞬躊躇した後、雫は斎の身体をそっと抱きしめた。
腕の中にすっぽりと収まるしなやかな身体。優しい海の匂い。
雫はしばらくの間、大切な宝物を抱えるように斎の身体を抱きしめたまま、そっとそっとその美しい髪を指で梳いてやっていた。

 

――――――それから数日後、雫は約束通り麓の街で見事な柘植櫛を見つけ、斎に手渡した。
艶やかな光沢を放つ見事な柘植の木に細かな細工彫りが施されているその櫛は、斎の手にしっとりと馴染んだ。
柘植の櫛は1つ1つ職人が丹精こめて仕上げるものだと聞く。
高級なものになると1つの櫛を作るのに1年以上もの月日を費やすとさえ。
「こんな良い品をいただいていいのですか?」
考えていた以上の素晴らしい品に斎は驚いて雫の顔を見上げた。
「櫛は女にとって一生の宝となると聞いた。だからお前に一番似合うものを探したつもりだ」
「兄様」
「オレはお前にこんな事くらいしかしてやることが出来ない。不甲斐ない兄で申し訳ないが受け取ってくれるか?」
「………」
優しくて優しくて、その優しさ故にいつも寂しそうな表情をしている兄、雫。
自分にはわからない何かを背負っているのだろう雫の深い宇宙色の瞳を見上げ、斎はゆっくりと頷いた。
「…一生大切にします」
「………」
「兄様自身の次に私が大切に思う宝物です」
「………」
「有り難う。兄様」
愛しい。
この世に、これ程愛しい者が存在するなど幼い頃は思ってもみなかった。
否応なく戦いに巻き込まれていくだろう自分達の運命。
何かを大切に思うほど、その運命に抗ってみたくなる。
この愛しい者を失いたくなくて。
どんな手を使ってでも失いたくなくて。
雫は、斎がすっと差し出した柘植櫛を受け取り、黙って斎の身体を引き寄せるとその長い髪に櫛を当てた。
するりと櫛の歯が髪の間を滑り降りていく。
細い絹糸のような柔らかな髪は、光の加減で淡く光って見えるようだ。
綺麗だと思う。
穏やかな優しい空間だと思う。
叶わないことが解っていながら、それでも願ってしまう。
この瞬間が永遠に続けばいいと。
他に何もいらない。
この瞬間の幸せは、きっと他のなにものにも変え難い。
だから。
永遠に。
この瞬間が。
永遠に続けばいいと。
それは、決して言葉に出来ないふたりの共通したただひとつの願いだった。

FIN.     

 

 

後記

お疲れさまです。如何でしたでしょうか。
76067HITキリ番リクエスト。今回のお題は「雫と斎の時代。まだ戦いが始まっていない、穏やかな日常。で、雫が斎の髪をくしでといてあげるシーンを入れていただきたいなぁ…」ということでした。
麗しき兄妹愛。っていうと何だか誤解されそうですが。
まだ、戦いが始まる前、(禅達に出会う前)の頃の雫達の話です。
絡まった髪を解いてもらうっていうシチュエーションって何だか好きですね。
実際にそういった経験はありませんが、似たような体験としましては、私も、以前、憧れてた人に自分の髪飾りをつけてもらったことがあります。舞台衣装の髪飾りなんですが、自分ではつけにくい位置につけなきゃいけなくて、しかも早替えをしなければいけない。困っていた所を、その人は何も言わずにさっとそばに来て手伝ってくれました。
すぐ近くにその人がいるって事と、その人の手が自分の髪を触ってるっていうことが何だか倖せでドキドキしたことを覚えてます。
こういう些細な事って、胸がキュンってなって、いつまでも覚えてたりするんですよね。
で、斎にもこのドキドキ感を体験をしてもらいました♪

どうだったでしょうか。こんな感じでご満足頂けましたでしょうか。水瀬さん。
楽しんでいただけると幸いなのですが。リクエスト有り難うございました。
これからも宜しくお願いします。

2003.09.06 記   

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