マーメイド

水の中は気分が落ち着く。
本当は、たゆたうような波の感覚が一番好きなんだけど、さすがに夜中の海に入るのは気が引けるんで、今日はプールで我慢しよう。
などと思いながら、こっそり夜のプールに忍び込むというこのスリルを、自分は結構楽しんでるのかもしれない。
ゆっくりと水に揺られながら、伸は小さくくすりと笑った。
季節は10月の始め。
明日には、プールの水を抜いてしまうと言う噂を聞き、ついつい最後の名残と、伸は真夜中、誰もいない学校のプールに忍び込んだ。
ピチャンっとはねる水飛沫の中、ゆっくりと泳ぎ出す。
何かに躓いて苛立っている時、不安で押しつぶされそうな時、何故か水のそばに行きたくなった。
理由なんて解らないけど、それでも、水と共にあると感じるだけで、なんとか自分自身を取り戻せるような気がしていた。
正人に言わせると、『水は生命の母だから』ということなのだが、本当にそれだけの理由だろうか。
特別。
そう、どうしてだか分からないけど、やっぱり水という存在は自分にとって特別なのだろう。
「…………!?」
すうっーっと風が頬をなでた。
さすがに夏と違って、空気がかなり冷たくなってきている。水の温度も。
「もし、プールの水を明日抜くんじゃなくても、今日がラストだろうなあ……」
残念そうに伸はつぶやいた。
さすがにこれ以上寒くなってまで泳いでいたら、風邪をひくどころの騒ぎじゃなくなるだろう。
「……伸?」
カシャンという微かな金網の音と、聞き慣れた声が伸の耳に届いた。
「……正人?」
「お前、またこんな所来て……どうりで家に居なかったわけだ」
道路側の金網に手をかけ、正人が呆れた顔で立っていた。
「英語の参考書借りようと思って行ったら、お前の姉さんが出て、『あら? 一緒じゃなかったの?』って。オレがどんだけ焦ったか分かるか?」
「ごめんごめん」
両手を合わせて拝み、伸は頭を下げた。
「すぐ上がるから、校門裏の桜の樹の前で待ってて」
「分かった」
頷いてすぐ歩きだそうとした正人が、ふと思いとどまって振り返った。
「そうそう、さっき警備員のおっさんが巡回始めてたから気をつけろよ」
「嘘! やばいじゃないか」
言うだけ言って、正人はさっさと走り出す。
伸は焦って辺りの様子を窺った。
いくらなんでも、こんな真夜中、学校のプールに忍び込んでいるのを見付かったら、何を言われるかわかったものじゃない。担任に報告されたら内申書に響く。それでなくても、今受けようと思っている公立高校は、それなりの進学校なんだから、素行が悪い生徒だ等と思われたら受かるものも受からなくなる。
伸は急いで水から上がろうと、プールサイドに手を伸ばした。
その時。
チカっと何かの光が目の端に映り、伸は慌てて今あがりかけた水の中に飛び込み直した。
「……もしかして、もう巡回に来た?」
今の光は懐中電灯の光のようだ。
ここへ来る途中正人が見かけたのだとしたら、校舎の巡回を終えて、体育館の辺りを廻っている最中だったことが考えられる。とすれば。
「……マジで、もうそろそろこっちへ来るってこと……?」
どうしよう。
へたに水から上がって、もそもそ着替えなどしていたら、それこそ見つけてくださいって言っているようなものではないだろうか。
だからって、警備員をやり過ごすためにしばらく水の中に潜っているというのは、あまり考えたくない現実だ。
その前に、プールサイドに置いてあるままの着換えやタオルを見つけられたら、アウトではないか。
いちおうすぐには見付からないよう、着替えはわきに隠しておいたので、見過ごしてくれる可能性が高いが。
「やばっ……タオル」
不自然にプールサイドの飛び込み台の上にかけられたままのタオル。
「……忘れ物には……見えないよな。いくら何でも……」
さすがにそろそろ息が苦しくなってきて、伸はそっと水面に顔を出した。
まずいことに伸が顔を出した位置は飛び込み台の正反対の位置。
タオルを取りに行くには、丸々25m泳がなければいけない。
「プールから上がっていくより、泳いだ方がいいかな?」
しばし思案する。
「……って考えてる暇はないっての」
トンッと軽くプールの壁を蹴り、伸は静かに泳ぎだした。
伸のまわりで、水面が波紋を描く。
これ以上水音をたてない為に、この先は潜水して泳ごうと伸が大きく息を吸い込んだ時、明らかにさっきの光とは反対の方向から、ガシャンっと金網を揺らす音が聞こえた。
「…………!?」
息を吸い込みかけた不自然な状態のまま、伸の身体が硬直する。
「……誰か居るのか?」
続いて聞こえた声に、隠れることも忘れ、思わず伸は声のした方向に顔を向けた。
「…………!?」
金網の向こうに立っていたのは、学生服を着た長身の男。
相手側も、まさかこんな所で夜中に泳いでいる者がいるなどと思ってもいなかったのか、大きく目を見開いて水の中の伸を見つめていた。
やばい。これは、かなりまずい状態ではないだろうか。
そんな考えが頭を過ぎるが、身体は硬直したまま動かない。
伸が声を発することも出来ず、固まったままなのに気付き、男は何を思ったか、ひらりと金網を乗り越えてプールサイドに降り立った。
「…………」
ゆっくりとした足取りで、男は伸に近づいてくる。
ようやく金縛りが溶け、伸はすーっと逃げるように水の中を移動した。
ゆらりと水面が波打つ。
男は水際まできて、ふと、飛び込み台に置いたままであったタオルに気付き、それを取り上げると、伸に向けてかかげて見せた。
「今更逃げても無駄だろう。こっちに来いよ。人魚姫」
少し掠れたハスキーボイスでその男は伸を呼び、手招きをする。
なんとなく吸い寄せられるような状態のまま、伸は男の待つ水際へむけて泳ぎ出した。
波音ひとつ立てないで泳ぐ伸を、男は不思議なものを見るような目つきでじっと見つめている。
ようやく男の元に辿り着いた伸を見下ろし、ふわりと男の表情が和んだ。
「なんか……マジで人魚かと思った」
そう言って男が差し出したタオルを受け取ろうと伸が手を伸ばした瞬間、男は伸の腕を掴み、自分の方へと引き上げた。
「…………!?」
水の中で浮力が付いているため、伸の身体は抵抗なく上に浮き上がる。
驚いて顔を上げた伸の唇に一瞬、温かいものが触れた。
男の唇だった。
「…………!!!」
ついばむようなキスをして、男は満足そうに笑った。
「いちおうこれが口止め料な。人魚姫」
「…………」
真っ赤になって硬直している伸にポンッとタオルを手渡し、男はすっと立ち上がった。
「警備員がこっち来ないように誤魔化しておいてやるから、さっさと消えるんだぞ」
「……あ……あの……」
「じゃ、ごちそうさま」
軽く手を振り、男は来たときと同じようにひらりと金網を乗り越え、走り去っていった。
しばらく呆然としていた伸は、再びチカリと見えた光が、プールと反対方向へ向かっていくのを確認し、ようやく水から上がると、わきに隠してあった着替えを取りだした。
「…………」
心臓がバクバクいっている。
一体、今のは何だったんだ。
頭が真っ白になって何も考えられなかった。
いや、今でも何も考えられない。
無意識にシャツを羽織り、ジーパンに足を通して、伸はノロノロと、正人が待っているであろう校門裏へと歩きだした。
そういえば、さっきの男が着ていた制服、あれは確か、自分達が受験を考えている高校の制服ではなかっただろうか。などとぼんやり考え、伸は思わず足を止めた。
「もしかしなくても、あれって……やっぱり……」
唇に触れた温かな感触。
引き寄せられた手の強い力。
カーッと頬が熱くなってきて、伸は持っていたタオルに顔を埋めた。
この時ばかりは、夜の冷たい風もほてった頬の熱を冷ますことは出来なかった。
暗くて顔もよく見えなかったけど、声だけは覚えている。
少し掠れたハスキーボイス。
『人魚姫』
男は伸をそう呼んだ。
「……ったく、誰が人魚だよ」
気を取り直し、伸は再び歩きだした。
見ると、桜の樹の下では、正人が元気に手を振っていた。

FIN.    

 

 

後記

お疲れさまです。如何でしたでしょうか。
116911HITキリ番リクエスト。今回のお題は「アレ」←っておい(-_-メ)
これが伸ちゃんの初KISSの真相でございます(笑)。
このネタを考えたのは、私がタイムリーでトルーパーを見ていた学生の頃。(その頃から脳味噌腐ってました)
友人に(今回のものとは違いますが)このネタを書いた小説を読ませたところ、「なんだこの通りすがりのキス魔は」と言われてしまったことを今でも鮮明に覚えております。
結局、名前も何もわからないまま、伸はこの人に会うことなく、このあと新宿へ向かいますので、これは本当に、伸にとっての思い出の1ページでしかなく、当麻もやきもちの妬きようがない出来事でございます。
一種の事故(?)ということで(笑)。
でも、実はさりげなく(キスのことは伏せてですが)遼に話したこともある出来事ですので、つまりこれは、伸にとっても忘れられない出来事のひとつではあったのでしょうか……?
なんて書いてると、このハスキーボイスのキス魔を再登場させたくなるので自粛します。
ではでは、こんなもので満足いただけましたでしょうか。Miiyeさん。
本当に有り難うございました。

2004.12.04 記   

 
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