微睡み

「あれ……?」
誰もいないかと思って覗いてみた居間から静かに聞こえてきた寝息の音に、遼はふと息をひそめた。
「…………」
しんとした居間の中をゆっくりと見回してみると確かに誰かが居る気配がする。ソファの影になって見えないが、間違いなくそこに誰かが寝ているようだ。
もしかして、彼かもしれない。だとしたらどうしよう。ドキンと遼の鼓動が大きく音を立てた。
彼だったとしたら、少しでも物音を立ててしまったら微睡みを妨げることになってしまうかもしれない。
でも。もし本当に彼なのだとしたら。
そっと足音を忍ばせて、遼は居間の中に踏み込んでいった。
もし、彼なのだとしたら、寝顔を見たい。
ほんの一瞬見るくらいなら、彼も起きてはこないかもしれない。
普段めったに見ることのない彼の寝顔。同室の秀や、あるいは当麻くらいしか見ることの許されないその人の寝顔。
少しくらいなら、自分にも。その権利が欲しい。
伸。
本当は同室になりたかった。
初めてこの柳生邸に来た時は自分の体調が悪かった所為もあって、なんとなくうやむやのうちに一人部屋に押し込められてしまって、それ以来その状況を甘んじて受けてはいたが、本当は、秀が羨ましかった。
一番長い時間を、この人と過ごせる秀の存在が羨ましかった。
でも、今更何も言えない。
もし、願いがかなって同室になれたら、きっと自分は眠れない日々を過ごしてしまうだろう。嬉しくて、切なくて、哀しくて、眠れない日々を過ごすことになるだろう。
「…………」
遼がすぐそばに立ったというのに、珍しく目を覚まそうとしない伸の様子に、遼はほっと安堵の吐息をもらした。
伸はとても眠りが浅い方だったはずだ。いつもなら、他人がこれだけ近づいていれば伸はすぐに目を覚ます。それなのに、目を覚ます気配がまったくないということは、もしかして疲れているのだろうか。
遼は、伸の寝顔を見つめたままそっと床に膝をついた。
ちょうど目線の高さに伸の顔がある。遼は僅かに目を細めて伸の寝顔を窺った。
大丈夫。表情はとても穏やかだ。疲れていたり、苦しんでいたりとは感じられない。
「…………」
遼は、そっと恐る恐る手を伸ばして、伸の栗色の髪を梳いた。
伸は身じろぎもしないまま眠りの淵に居る。
うすく開いた状態の伸の唇に目を留め、遼は思わずゴクリと唾を飲み込んだ。
今日の夕食後、皆で話していた話題が頭の中に蘇ったのだ。
きっかけを作ったのは自分なのだから、誰を責めることも出来ないが、どういう理由か、ファーストキスの話が皆の口にのぼった。
もう高校生なのだから済ませていてもおかしくないと級友に言われ、皆はどうなのだろうと話題を振った。
そして、唯一、伸だけが済ませていたことを知ったのだ。
驚き半分と、納得したのが半分。
人当たりのいい性格と柔らかな笑顔。伸が萩に居た頃からそれなりに人気者だったであろうことは容易に想像出来る。だから、伸に想いを寄せる人の一人や二人いたって別に不思議なことではない。だから、そのうちの一人と、その、そういうことを済ませていても、別におかしくはないわけなのだ。
山梨の田舎に住んでいた自分と違って、伸は少なくとも街に住んでいたのだから。
わかっていた。
わかっていたのだが。それでも。
「…………」
この感情はなんだろう。嫉妬なのだろうか。
何処の誰だか分からないその相手に対する嫉妬なのだろうか。
無意識のうちに、遼は伸の唇に自分の顔を近づけていっていた。
触れたら、どんな感じなんだろう。
柔らかいのだろうか。温かいのだろうか。
初めてのキスは甘酸っぱい香りがすると聞くが、本当なのだろうか。
「…………!」
コンッとその時部屋の中に響いた微かな音に、遼はビクッと動きを止めて顔をあげた。
「……あ……」
遼の目に、居間の入口で腕を組んで立っている当麻の姿が映る。当麻は不審気な目を向けて、じっと遼を見つめていた。
「……と……当麻……」
やばい。いつから居たのだろう。ずっと見られていたのだろうか。
さっと遼の顔に緊張が走った。
「当麻……どうしたんだ?」
「遼こそ、どうしたんだ? もう寝てると思った……ん? そこに誰かいるのか?」
「え? あ、その……」
「…………?」
当麻が不思議そうな顔をして居間の中へ足を踏み入れた。
とたんに遼は慌てて立ち上がる。
「あ、伸が……なんかうたた寝してるみたいだから起こさなきゃって思って……」
「伸が? 珍しいな、こんな所で」
どうやら当麻は今の今まで伸の存在には気付いていなかったようだ。
ほっと胸を撫で下ろし、遼は当麻に笑顔を向けた。
「うん。なんか疲れてるのか、オレがそばに来ても起きないんだ。どうしよう。もうちょっと寝かせておいてやったほうがいいのかな?」
「そうだな。じゃあ、オレがもう少し起きてるから、頃合い見計らって、起こして二階へ連れてくよ。お前はもう寝ろ」
「ああ、分かった。じゃあ、あとよろしくな」
「おうっ」
何となく後ろめたい感情が遼の中にわき起こり、遼はそれを振り払うように頭を振ると、当麻の脇をすり抜けた。
「じゃあ、お休み当麻」
「ああ、お休み」
ほんの一瞬、もう一度眠っている伸の顔を見て、遼はさっと居間から出ていった。
トントンと遼の足音が二階へと消えていく。
階段を上がりきったのを耳で確かめた後、当麻は大きくため息をついた。
「おい、伸」
そして、小さな声で伸に呼びかける。
伸は当麻の呼びかけにすんなりと目を開けた。
「……何?」
「……やっぱり起きてたんじゃないか」
やれやれと言ったふうに当麻が頭を抱えた。
伸は悪びれたふうもなく、ちらりと視線だけ当麻へ向ける。
「起きてちゃ悪い?」
「……悪くないとでもいうのか、お前は」
更に頭を抱えて、当麻は伸のそばへ近寄ると、どかりとソファに腰を降ろした。
さっきまで一人で占領していたソファに侵入してきた邪魔な物体に、伸も仕方なく身体を起こして座り直す。
「いつから起きてた?」
「遼が居間に入って来た時からかな?」
「…………」
本気で機嫌悪そうに低く唸り、当麻は伸の顔を睨みつけた。
「起きてたくせに、なんで眠ってるふりなんかするんだよ。あのままオレが入ってこなかったらどうなってたと思うんだ」
「別にどうもならないよ。何を心配してるんだい? 君は」
「どうにもならないわけないだろうがっっ」
思わず大声をだしかけた当麻の口を手で塞ぎ、伸はしーっと唇に指を立てた。
「大きな声ださない。二階に聞こえてもいいの?」
「…………」
苦虫を噛み潰したような顔で、当麻は口を塞いでいた伸の手を振り払った。
「……ったく、何考えてんだよ、お前は」
「……別に」
「それとも、あのままお前は……遼と……」
「…………」
ちらりと伸は当麻を見る。
「遼と……その……」
「……何?」
「……ても、構わないって思ってたのか?」
明らかにその単語を言いたくないのか、とても不明瞭な口調で当麻は言った。
伸は呆れたように肩をすくませ、ソファに深々と身体を埋める。
「まさか。遼だったら途中で思いとどまると思ってたし」
「んなわけあるかっ」
再び声を荒げかけて、当麻は慌てて自分で自分の口を押さえた。
伸はおかしそうにそんな当麻を見つめている。
「……いつもだったら、お前のその考えは合ってるのかもしれないが、さすがに今日は違うだろ」
子供のように拗ねたく口調で当麻はそう言うと唇を尖らせた。
「さっき何の話をしてたか、お前だって覚えてるだろうが」
「……覚えてるよ」
「だったら……」
「うん。覚えてる。確か君、お母さんと子供の頃キスしたことあるんだってね」
「……なっっ!?」
真っ赤になって飛び上がり、当麻はパクパクと口を開けた。
「お前っ、何で!? その話の時はキッチンに居たんじゃないのか!?」
「ちょうど廊下で聞こえたんだよ。君の叫び声が」
「…………」
伸の言い方は別に不機嫌そうでもなんでもない。どちらかというと当麻の反応を面白がっている風情だ。
どう考えてもこれは伸のほうが優勢だろう。
チェッと軽く舌打ちして、当麻はソファに座り直し両手両足を投げ出した。
ひょろ長いと言っていい当麻の手足がソファからはみだす。
伸はクスクス笑いながら、開いた当麻の肩口にコトンと頭をもたせかけた。
「…………!?」
伸の栗色の髪が当麻の鼻先で揺れる。
当麻は何とも言えない顔をして、そっともたれかかってきた伸の肩に手を添えた。
伸はそのまま安心したように目を閉じる。
「……おい、伸」
困ったように当麻がつぶやいた。
「こんな体勢で寝るなよ。どうなっても知らねえぞ」
「どうなってもって?」
伸は目を閉じたまま聞く。
本当に、こいつは分かっててやっているんだろうか。当麻はくしゃりと前髪を掻き上げた。困ったときの当麻の癖だ。
「……オレだって、自分の理性には限界があるんだぞ」
「…………」
そういえば、当麻には前科があったなあ。目を閉じたまま伸はそんなことを考える。
「遼だってそうだ。あいつだって立派な男だ。いつタガが外れるか知れたもんじゃない」
「……好きにすればいいんじゃない?」
ぽつりと伸が言った。
「本気で嫌だったら、返り討ちにする自信あるし」
「…………」
思わず眉間がコイル巻きになる。
確かに。
伸の強さから言って、それははったりでも何でもないだろう。
先に惚れた者の負けということだ。
そう。間違いなく自分達は伸に負けている。
何を置いても大切だと分かってしまったその瞬間から。
当麻は大きく大きくため息をついた。
「なあ……伸」
「……ん?」
「嫌じゃなかったら……遼相手でも甘んじて受けるのか?」
「…………」
伸がそっと目を開けた。
「あいつは本気だ。本当に本気なんだ。そして、お前はそれを知ってる」
「うん」
伸が頷く。
そう、知っている。
遼の真剣な眼差しも、本気の想いも。知っている。
いつからか遼が自分を見る瞳の色が違ってきていたことも、知っている。
彼の瞳が懐かしい彼の人と重なってしまうことも、知っている。
知っている。
でも。
「だからって、それとこれとは別」
聞こえないくらいの小さな声で伸はつぶやいた。
「……別……に出来ればいいんだろうけどね」
カチカチと静かな部屋の中に時計の音が大きく響く。
「そこまで、お前は遼が好きか?」
「…………」
伸は無言で頷いた。
好きの意味。
友情の好き。親愛の好き。尊敬の好き。愛情の好き。
それがどれ程の違いなのか、もう分からない。
ただ、好きなのだ。
分かっている。
どうしようもない。
ただ、ただ、好きなのだ。
「オレだってお前が好きだ」
「…………」
当麻の言葉に伸は沈黙を返す。
いつもそうだ。
伸は決して当麻に対して好きだという言葉を告げてはこない。
遼に対してはあんなに素直に言葉を綴るというのに。
それが、悔しくて、切なくて、でも、ほんの少し嬉しい。
とことん天の邪鬼な想い人。
「お前が好きだよ。伸」
「…………」
「すんげえ好きだよ」
「……耳タコだよ。バカ当麻」
ようやくそんな言葉を返してくる伸の耳が赤く染まっている。
当麻は愛しげに伸を見つめると、その頬に手を添え、そっと唇を重ねた。
「……と……」
思った通り、僅かに伸が抵抗する。
当麻の身体を押しのけようと伸ばされた腕を反対に掴み返し、当麻は伸の身体をソファに押しつける。
「どうした? 本気で嫌なら返り討ちにするんだろ?」
「…………バカ」
悪態をつきながら、伸は当麻の胸に頭をこすりつけた。
少なくともこの体勢になれば、自分が顔をあげない限り、当麻の唇は自分のほうへ降りてはこないだろう。
ささやかな抵抗。無駄だとは分かっていても黙ってされるがままになるのは、伸のプライドが許さない。
第一、これではまるで恋人同士のようではないか。
そんな事を考えてしまい、とたんに伸の頬が真っ赤に染まった。
まったく、何を考えているのだ、自分は。こんなふうになる予定などなかったはずなのに。
何がどうなってこんなに自分は変わってしまったのだろう。
「…………」
変わった。
そうなのだ。自分はきっと変わってしまったのだ。
この腕が温かいと思ってしまった時から。
この声が耳に心地いいと思ってしまった時から。
そして、この宇宙色の瞳に魅入られた時から。
「当麻……」
「何だ?」
「言っておくけど、それ以上やったら本気で拒否して君のこと叩きのめすからね」
「分かってますよ。人魚姫」
「…………!?」
絶対顔を上げるものかと思っていたことも忘れ、伸はビックリして当麻を見上げた。
「今……何……?」
「……?」
「今……人魚姫……って……」
何故伸はそんな驚いた顔をするのだろうと当麻は不思議に思いながら、こくりと頷いた。
「いや、こんな時、お姫様とかって呼ぶ奴いるじゃないか。お前の場合、姫は姫でも陸の姫じゃなくて海の姫だろうなあって思って……」
「…………」
奇妙な顔をして、伸はまじまじと当麻の顔を覗き込んだ。
「……それだけ?」
「それだけ」
コクコクと当麻は首を縦に振り続ける。どうやら本当に他意はなさそうだ。
伸は、はあっと大きく息を吐いた。少し、安心した。
「…………?」
何を安心したのだろう。
自分の思考を遮って、伸は当麻の鼻先に指を突きだした。
「人のこと女扱いするなんて、失礼にも程がある。以後、そんな呼び方は厳禁だからね」
「…………」
「分かった? 分かったら返事は?」
「わ……わかりました」
一際大きく頷く当麻に、ようやく満足したのか、伸は再びパサリと当麻の肩口に頭をもたせかけて体重を預けた。
やはりこの体勢が心地良い。
当麻がどう思おうが、この状態が一番倖せなのだ。伸は深く息を吐いた。
なんだか、今日は奇妙な日だった。
焦ったり、宥めたり、怒ったり。
愛しいと思ったり。
改めて、どうしようもないほど愛しいと思ったり。
「……伸? マジで寝ちまったのか?」
当麻の声に耳を傾けながら、伸は微睡みの中で、通算何度目かになる寝たふりをし続けた。

FIN.     

 

 

後記

お疲れさまです。如何でしたでしょうか。
今回の話は、当麻の誕生日企画(エキュソンビター)に掲載させていただいたお話のその後ということで、伸の誕生日企画(スイートペタル)にて掲載させていただいた作品でございます。
伸の誕生日。しかも当伸にて何か作品をということだったのに、出来上がってみれば何故か前半はすーっかり遼伸になっておりました。ごめんなさい(汗)。
まあ、うちのサイトは当麻を応援するのと同じくらいに遼を応援してくださっている方々が大勢いますので、良しとしましょう。ただ、いつまでこの状態でいいのかどうかが悩み所なのですが。
とにもかくにも伸の倖せの為に。
そして、伸、生まれてきてくれて本当に有り難う。

2005.06.18 記   

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