光風

突然の通り雨にさらされ、全身ずぶぬれになった紅は、誰もいない湖の畔で途方に暮れていた。
皆のいる小屋に戻れば着換えもあるだろうし、体を拭く手ぬぐいのひとつも出して貰えるだろう。でも、それを頼むのはとてもとても気が引けるのだ。
唯一の救いである禅は、今日は朝から雫に頼まれた用事を片付けるため麓の村へと行っていて不在である。
まさかこんな時に、こんなことになるなんて。
未だにどうしても皆の前では外せない頭の布に手を伸ばし、紅は大きく大きくため息をついた。
『ため息つくなよ。倖せが逃げてくぜ』
禅の言葉が頭を過ぎる。
それは解っている。とても、とてもよく解っているのだ。でも。
それでも、どうしようもない。
恐くて、恐くて、どうしようもない。
暗闇の中では平気だった少女が光の中で紅を見たとたんにあげた悲鳴。
何もしていないのに紅の姿を見ただけで石を投げつけてきた少年の手。
あらゆる過去の出来事が紅の恐怖心を煽りたてる。
恐くて。
嫌悪の表情を見るのが恐くて。ほんの一瞬でも、その目に映る暗い光を見るのが恐くて。
クシュンっと小さくくしゃみをし、紅は諦めたように頭の布をほどきだした。
とにかくこのずぶぬれの身体と頭をどうにかしなければ、風邪をひいてしまうだろう。万が一、熱でもでたら、また禅に心配をかけてしまう。禅だけじゃない、あの心優しい斎の巫女や、雫、柳だって、黙ってはいない。
此処で出逢った彼等は、皆、優しかった。
驚くほどに優しかった。
でも、だからこそ、よけいに恐いのかも知れない。
自分の姿を本当にさらけだしてしまったあとも、彼等に受け入れてもらえるのか解らなくて、それが恐くて仕方ないのかも知れない。
「…………」
頭の布を全部取り払い、紅はゆっくりと息を吐いた。
ほたりと滴が滴り落ちる髪は相変わらず異様な色をしている。でも、重かった頭が少し解放されたようで、それはそれで、かなり楽かもしれない。
紅は、そっと手で自分の髪に触れてみた。
光に反射して、黄金色に輝いている髪。決して日本人ではあり得ない髪。
ここのところ切ることも出来ていなかったので、紅の髪は伸び放題だった。
肩から背中に流れる髪は、1本1本がとても細く、指に絡めてもするりとほどけてしまうほどに柔軟だ。
禅が繰り返し、綺麗だと言ってくれる髪。
そうでなければ、自分はもっともっと自分自身を嫌っていただろう。
心底嫌いつくして、今頃どうにかなっていたかも知れない。
キラリと目の前の湖の水が光を反射した。
通り雨はすっかり去ってしまい、太陽が顔を覗かせているようだ。
しばらくしたら、髪も乾くだろう。そうしたら、再び布を巻いて、何もなかったように皆の所に戻ろう。
紅がそう思って、ほどき終えた布を絞ろうと立ち上がった時、後ろでがさりと茂みが揺れる音がした。
「…………!?」
ビクリとして振り返った紅の前に姿を現したのは斎だった。
大きな瞳を更に大きく見開いて、斎はじっと紅を見つめている。
「…………紅……?」
「……あ……」
次の瞬間、ふわりと斎の表情が和らいだ。
「驚いた。紅ってとても綺麗な髪をしているのね。隠しているの、勿体ないと思うわ」
そう言ってすっと近づいてきた斎は、あまりのことに呆然としたまま動けないでいる紅の頭の上にふわりと白い布をかぶせた。
「きっと雨の所為で濡れてしまって困ってると思い、探しにきたのだけど、よかった。すぐに会えて」
何の躊躇いもなく伸ばされた手は、紅の濡れた髪を布ごと優しく包み込む。
ポタリと落ちた滴を拭い、斎はふわりと笑った。
「なんだか、お日様の光がこぼれ落ちてきたみたい。兄様が貴方を光輪と呼ぶ意味が、とてもよく解るわ」
「光輪……」
「そう。光の輪。貴方はまるで光の使者のようだもの」
斎の言葉にはまったく淀みがない。本当に心から紅の髪を賛美しているようだ。
あり得ない。
そんなことあり得るはずがない。
紅は俯いて、きつく唇を噛みしめた。
「……オレは、そんな高貴な者ではない。オレは……」
自分は、周りの人間に忌み嫌われてきた者だ。
そう言いかけた紅の言葉を遮るように、斎は柔らかく微笑んだ。それこそ、まるで光のこぼれ落ちるような笑顔だった。
柔らかな、柔らかなその笑顔に、さすがの紅も続く言葉を無くす。
自分より少しだけ高い位置にある斎の瞳を、紅はそっと覗き込んだ。
笑顔の優しさに心を奪われそうになることがあるなどと、今の今まで思ってもみなかった。そんなことがあるなんて、思ってもみなかったのに。
戸惑ったような表情を浮かべている紅に斎はくすりと笑みをこぼす。そして、斎はそのままふところから柘植の櫛を取り出し、少し乾きだしている紅の髪を梳いた。
「……そ…それ……」
この櫛は斎がとてもとても大事にしているもののはずだった。
緩やかな水の流れに浮かぶ桜の花びらをかたどった美しい細工の柘植櫛。
「だ……駄目だ。そんな大事なものをオレに……」
「……何が駄目?」
斎は手の動きを止める気配すらない。
ゆっくりと丁寧に、斎は櫛で紅の髪を梳く。細くてしなやかな紅の髪の間をするりと櫛の歯が通っていく。
紅はそっと目を閉じた。
頭皮にあたる感覚は何故こんなにも気持ちがいいのだろう。
斎の細い指が髪に触れるたび、どうしてこんなに暖かな気持ちになるのだろう。
どうして。
「…………紅……?」
そっと小さな声で斎が紅の名を呼んだ。どうしたのだろうと紅は閉じていた目を開ける。
とたんに、ポロリと涙が一粒頬にこぼれ落ちた。
「…………」
斎は黙って紅の顔を見つめている。
その優しい若草色の瞳の中に泣いている自分の姿が映り、紅は驚いて目を瞬いた。
泣いている。何故。
何が哀しいのだろう。自分は。
違う。哀しいのではない。この涙は決して哀しみの涙ではない。
この涙は。
「…………この地は、貴方の辿り着くべき居場所になれましたか?」
無意識のうちに、紅は自分が頷いているのに気づく。
居場所。辿り着くべき大切な場所。ずっと探していた場所。
ずっとずっとずっと探していた場所。
それは、きっと間違いなく、此処なのだ。
「……よかった……」
再び斎がふわりと微笑んだ。
本当に、光のこぼれ落ちるような笑顔だった。
つられて紅も笑みをこぼす。
それは、涼やかな光の風が通りすぎた瞬間だった。

FIN.     

 

 

後記

お疲れさまです。如何でしたでしょうか。
131313HITキリ番リクエスト。第1弾。今回のお題は「柘植櫛の続編。で、できれば斎が紅の髪を梳いている場面とか……」ということでした。
本当はもうひとつお題があって、どちらかという事だったのですが、諸々考えまして、こちらに落ち着きました。
案外、斎は人気が高いようです。唯一の女の子だから、どちらかというと敬遠されたりしないかなあ、と不安がっていたのが嘘のよう。
皆様が、女の子もきちんと受け入れてくださる方々ばかりで、本当に良かったなあと思います。

どうだったでしょうか。こんな感じでご満足頂けましたでしょうか。水瀬さん。
楽しんでいただけると幸いなのですが。リクエスト有り難うございました。
これからも宜しくお願いします。

2005.07.03 記   

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