華の羽衣

その時、まるで伸の身体を包み込むように桜の花びらが舞い上がった。
ふわりと頬をかすめて風に乗る花びらは、見ようによっては天女の羽衣のようだ。
地上に舞い降りた天女。
叶わない願いを心に抑え込んだまま、じっと彼方を見つめる瞳。
想いが遠ければ遠いほど、その瞳は透明さを増していく。
透明で儚げで、それでも、あの人は確かに存在していたのだ。
確かに。

 

――――――「大丈夫ですか?」
その声を耳にしただけで、連日の疲れも、身体の痛みも何もかもが消えていくような気がした。
突然目の前に現れたその人は、長い髪が乱れるのを厭いもせず、木々の間を潜り抜けるように柳の元へと駆け寄って来ると、戸惑っている柳の手をそっと取り、怪我をしている傷口へと触れた。
「あ……あの……」
「しばらくじっとしていてください」
その言葉が奇跡の始まりの合図。
先程までズキズキと痛みを訴えていたはずの傷がみるみる薄くなっていき、流れていた血がすうっと止まっていった。
「な……!」
信じられない現象に柳は言葉を詰まらせる。
「驚かせてしまい申し訳ありません。少しでも早く痛みを和らげてさし上げたかったものですから」
「………………」
「私、斎と申します。兄と共にこの先の神社に身を寄せさせていただいております。もし、よろしければ傷が癒えるまでそこでお休みいただけば……」
言葉をなくし、柳はじっと目の前の美しい顔を見つめつづけた。
腰のあたりまで真っ直ぐに伸びた見事な髪。透き通るような白い肌。そして何よりも印象的なのは不思議な光を放つ緑の瞳。まるで春先の若草をそのまま映し込んだかのような澄んだ瞳。
惹かれたのは、この瞬間。
初めて出逢ったこの時だろう。
まるで、空から舞い降りてきた天女かと思った。
早く羽衣を隠さなくては、何処かへ消えてしまうのではないかとさえ思う程。
「……あの……」
驚いた表情のまま一言も発しない柳を見て、斎は再度申し訳なさそうに頭をさげた。
「本当に申し訳ありません。突然不躾なことをしてしまい、驚かれましたでしょう。でも、どうか私が誰に対してもこのような事をするなどと思わないでください」
本当に恥ずかしそうに頬を赤らめ、斎はうつむいて小さな声で言った。
「いつまで経っても世間知らずで……あの……本当に申し訳ございません。見知らぬ殿方に対して、こんな……」
「……あ、いえ、そうではないのです。あの……」
慌てて柳は斎の言葉を遮った。
さすがに斎の顔に見惚れてしまって、言葉が出なかったとは言えないが、悪い印象を持ったなどと誤解を与えてしまうことは何が何でも避けなければ。
不必要なほど大きく首を振って、柳は斎の言葉を否定すると、居ずまいを正した。
「こちらこそ申し訳ありません。失礼な態度をとってしまい」
「…………」
まだ少し不安そうに斎は柳を見あげている。
僅かに寄せられた眉の形の美しさに、柳の心臓が再び大きく鼓動を打った。
「オレ…いや、私は柳と申します。都へ向けて旅をしている最中だったのですが、途中山道で迷ってしまい難儀をしておりました。助かりました」
「……その傷は……?」
血は完全に止まり、傷口もほとんどふさがりかけているとはいえ、まだ赤く残っている傷跡を差し、斎が訊いた。
「これは先程山犬の集団に襲われかけた時のもので……あぁっ!!」
慌てて立ち上がり、柳はとっさに斎の腕を掴むと駆け出した。
「急いで逃げてきましたが、まだこの辺りに仲間の山犬がうろついているかも知れません。此処は危険です。逃げましょう」
「…………!?」
「早く!」
「い…いけません、そっちは……」
「……えっ?」
斎の制止の声に立ち止まりかけた柳の足下で地面がボロリと崩れた。
「うわっ…!」
「あぁ!!」
崩れた石や土塊と一緒になって、柳と斎はもつれるように斜面を滑り落ちていった。
茂みや草に隠れて見えなくなっていたが、そこは一歩踏み出すと落ちてしまう小さな土手のような斜面だったのだ。
しかも土が軟らかく、崩れやすい。
「うわぁぁー!」
派手に土煙を上げながら転げ落ちた柳は、必死で自分の身体を楯にして斎を落下の衝撃から護った。
ドンっと鈍い衝撃音と一緒になんとか平らな所まで滑り落ちた柳の上に斎の身体が重なる。
不思議なほどに軽い斎の身体を抱きとめると、ふわりと甘い香りがした。
「ご……ごめんなさい」
「こ…こちらこそ、貴女の忠告を聞かずにとんでもないこと……」
「いえ、そんなこと……私こそ…庇っていただいて重かったでしょう……」
「そんなことありません。少しも重くないです。それよりも貴女を危ない目に遭わせてしまって、本当に申し訳……」
謝りかけた柳を見て、ついに斎が口元を押さえてクスクスと笑いだした。
「……あ…あの……」
「す……すいません。あまりにも可笑しくて。なんだか私達、さっきから謝ってばかりですね」
「……あ……」
小さな肩を震わせてしばらくの間笑い続けていた斎は、やがてどうにか笑いを抑え、そっと柳の手を取った。
「せっかくふさいだ傷口がまた開いてしまいましたね」
「あ…」
言われてみると、腕の傷口が再びぱっくりと口を開けていた。どうりで痛みがぶり返してきていたわけだ。
ふわりと微笑んで斎はそっと柳の腕の傷口に手を添えた。
ホウッと心臓が暖かくなった気がしたと同時に、先程見た現象と同じように、流れだしていた血が止まり、傷口がふさがっていく。
何度見ても奇跡としか言いようがない。
今度こそ、完全に傷口がふさがったのを確認して、斎はようやく添えていた手を離した。
ほんの少し名残惜しい。
斎が触れていた手の温もりを逃がしたくなくて、柳は無意識に自分の腕を抱き込みながら、じっと目の前の斎の美しい顔を見つめた。
「不思議な…力ですね……まるで、癒しの手だ」
「……癒しの手……?」
「ええ」
頷きながら、柳は眩しそうに目を細めた。
やはりこの人は天女だ。人間ではあり得ない。あるはずがない。
何故なら、自分はこんなに柔らかく笑う人を見たことがない。
こんなに暖かい眼差しを見たことがない。
透き通るような白い肌も、長い睫毛も、形の良い眉も。
澄んだ緑の瞳も。
何もかも初めて見たような気がする。
空から舞い降りてきた天女。
不思議な人。
だからこそ、この人はこんな不思議な力を持っているのだ。
その時、斎の肩にはらりと降り落ちてきた淡い桜色の花びらが、羽衣に見えた。
急いで隠して、永遠にこの人を此処に留めておきたい。
その時、柳は本気でそう考えていた。

 

――――――カメラを持った遼の手がすうっと持ち上がった。
ファインダー越しに伸の姿を捉える。
満開の桜の木の下。
舞い踊る桜の花びらを身体に纏う伸は、遠い昔、遙かな過去の時代を見つめているのだろうか。
彼方を見つめる目の光がほんの一瞬曇る。
別れの目。
伸の心にあるのは、倖せな出逢いと、哀しい別れ。
何故かわからないが、直感的に遼はそう思った。
誰のことを考えているのだろう。
何故、彼方を見つめる伸は、あんなに儚く見えるのだろう。
無意識にシャッターを切る。
カシャリ。
愛しくて。愛しくて。愛しくて。
ずっと留めておきたいと願っていた。
ずっとずっとずっと。
届かなくてもいいから。
自分だけのものになどならなくて構わないから。
せめて。
此処に。
この場所に留めておきたかった。
大切な天女。
大切な大切な、ひと。
満開の桜の木の下で、伸がふと遼の方を振り返った。
先程のシャッター音には気付いていなかったようだが、遼の姿を捉えたとたん、伸の表情が柔らかく綻んだ。
ふわりと桜が伸の周りで風に乗る。
やはり、天女の羽衣のようだった。

FIN.    

 

 

後記

お疲れさまです。如何でしたでしょうか。
今回のお題は「桜吹雪に佇む水滸の戦士」でございました。
戦士とは名ばかりで、ちっとも鎧を纏ってくれない水滸達でございます。
いちおう佇み係は(←おい)伸。心の中は斎。ってな具合になりました。
水滸というより、柳(遼)の話になりましたね。微妙にずれてる感がなきにしもあらずですが(^^ゞ
まあ、桜=柳という私の内部方程式に則って作品を仕上げさせていただきました。
こんな感じでよろしかったでしょうか。
miiyeさん、リクエスト本当に有り難うございました。
あ、ちなみにこの時遼が撮った写真は例の「リトルバード」での写真でございます。あしからず(笑)。

2004.04.24 記   

 
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